第2話 たゆたう

「やっとあったよ……」

 今までの苦労に対する憎しみをこめて、朝紀はその看板をにらみつける。見上げた建物は守山デザインビルというだけあってモダンで、一階部分はガラス張りになっていた。

 美里のふりをして、記名帳に名前を書くこと。それさえ済ませればいい。

 絨毯の敷かれた床に、白い壁。そこにかかる無数の額。たどり着いた三階のエレベーター前で、開かれたスカイホールのドアの向こうをちらりと見ながら、受付の女の人にチケットを渡す。差し出された記名帳にできるだけ美里の字に似せて記名する。神永かみなが美里みさと、十六歳。

「ほう、十六歳ですか。こんなにうら若い方が写真の魅力を理解してくださるとは、嬉しい限りですな」

 突然の右後ろからのしわがれた声。びくっとして振り向くと、見たこともない白髪の老人が立っていた。朝紀よりも背が低い。記名した文字と朝紀を交互に見て、柔らかい笑顔を浮かべている。

「お嬢さんも佐山氏のファンかね? 彼はあの若さで素晴らしい実力をお持ちですな。そうですか、やっと若い方々にも写真が芸術として認められるようになりましたか。いやあ、実によいことです」

「……はあ」

 本当は名前さえ知らないカメラマンだ。芸術だなんて思ったこともない。かといって個展会場の目の前で否定できるはずもなく、勢いよく話し始めた老人にとりあえず曖昧な返事をする。

「現代はデジカメ? とかで簡単に写真が撮れてしまうものだから、フイルムカメラは見捨てられがちでしてな。あの独特の味わいはやはり手間がかかってこそなのですが」

「…………」

 穏やかそうな顔を紅潮させて、老人は随分と興奮している。よっぽど『佐山氏』のファンなのだろう。一人で勝手に喋ってくれるので、もう返事も必要なさそうだ。

「お嬢さ」

「先生」

 ……先生?

 さらに何かを言いだそうとした老人の声をさえぎるように、不意に男の声が響いた。老人が振り向くので声のしたほうを向くと、ひげを生やした浅黒い男が個展の会場からこちらを見ている。年齢は三十代半ばといったところ。

「さっきから入口で声がするんで何かと思ったら、女子高生とお話ですか。僕の為に来てくれたんじゃなかったんですか」

 すねたような口調で男が言う。その台詞に老人は納得したように何度もうなずいた。

「おぉ! そうだった。すっかり話し込んでしまってな」

「その子、突然でびっくりしてるじゃないですか。気をつけてくださいよ、まったく」

 老人は穏やかそうな笑みを深めて、男の肩をたたく。

「恩師に向かってずいぶんと手厳しいじゃないか。プロになったら気も強くなったようですな、佐山氏」

 わざとらしく敬語を使ってそう言うと、老人は朝紀に向かって「さ、遠慮せずにお入りなさい。お嬢さん」と急かした。朝紀は「どうも」とまたも曖昧な返事をして老人に半ば強制的に連行される。そして、先ほどの言葉を頭の中で反芻して驚いた。

「……あ」

 もう一度横に立つ男をまじまじと見る。老人は『佐山氏』と呼んでいた。ということは、この男は個展を開いた佐山義彦本人なのだ。思った以上に平凡であることに違和感を覚える。写真家というくらいだから、もっと気難しそうな人だと思っていた。

 朝紀の視線に気がついたのか、佐山義彦はふっと視線を下げた。目が合う。朝紀が軽く会釈をすると、男は苦笑した。

「すみませんね、先生が迷惑かけて。写真部時代の恩師なんですよ。びっくりしたでしょ」

「はあ、まあそうですね」

 なんとなく話をあわせる。

 老人はいつの間にかいなくなり(勝手に写真を見始めていた)、佐山義彦もしばらくすると「それじゃ楽しんでください」と言って去っていった。来たついでだと思って、何気なく近くにあった写真をながめる。夕暮れの坂道、柔らかく灯る家の明かり、手をつないで歩く影絵のような子供達。少し肌寒い風さえも感じられそうな臨場感。芸術を評価できるような素質はないけれど、すごいのだということだけは感じた。こんなに引き込まれるような写真を見たことがない。

 つられるようにして、順番に写真を見ていく。澄んだ水の中で尾をひるがえす鯉。父親の肩の上で天に風車をのばす少女。草に埋もれるようにして立つ小さな祠。夜明けの空に浮かぶ細い銀の三日月。そして特に目を奪われた、一枚の写真。会場の一番隅に飾られたそれは水中カメラを使ったのか、水の底から水面を見上げたものだ。揺れる水面から差し込む光。粒になってのぼっていく撮影者の息。小さな魚が一匹、水の中を横切っている。影のような体の中で、光を受けた尾ひれだけが鮮やかに色づく。

 綺麗。

 その言葉が何よりも似合うと思った。釘づけになったまま、じっとその写真を見つめ続けていると後ろから佐山義彦の声がした。

「それが気に入ったかい」

「はい。すごく綺麗」

 なぜかとても素直に返事ができた。

「この写真はね、実は僕の甥が撮ったものなんだ。ほら」

「え」

 驚いて佐山義彦が指差す先を見てみる。『たゆたう』という題名の下に確かに『佐山和明さやまかずあき』と名前があった。

「甥も高校で写真をやっていてね。僕が個展をやると決まった時に、せっかくだから一枚出してみないかって提案したんだ。個展だと自由がきくからね。そしたら、翌日この写真を持ってきた。驚いたよ。本人はたまたま上手くいったんだと言ってたけどね。僕もこの作品は気に入ってるんだ」

「へえ……」

 変わった題名だ。たゆたう、なんて高校生で使うだろうか。ゆらゆらとゆらめいて定まらないさまのこと。心が揺れること。そんな意味だった気がする。

「そうだ、もしよかったらこの写真のポストカードもらってよ」

 佐山義彦はそう言うと受付から一枚のポストカードを持ってきた。作品を印刷したポストカードはひとつ三百円ほどしたはずだ。

「でも、それ売り物じゃ……」

「試しに刷ってみたんだけど、あんまり売れ行きよくなくて。一枚くらい無料にしてもたいしたことないよ。ま、僕の作品よりこっちが売れたりしたら専門家として困るんだけどね」

 おどけて言いながら、朝紀にポストカードを差し出す。

「ありがとうございます」

 お礼を言って受け取った。あらためて見ると、自分と同じくらいの年の人間が撮ったとは思えない。きっとこれを撮った『佐山和明』は自分のように鬱屈してはいないだろう。世界をもっと素直に見ているんだろう。だから、こんなに綺麗な写真が撮れるのだと思った。

 家に帰ってから、ポストカードを机の上の写真立てに入れる。そこだけが静かな海になる。光る水面の向こうに何かを探すように、朝紀は小さな海を眺め続けた。

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