ひかりゆくもの

神山はる

第1話 拾い集めた景色

きらきらしたものなんていらないと思っていた。

青春なんてバカらしいと思っていた。

花は枯れて終わりだと思っていた。

人を好きになることなんてないと思っていた。


――世界がこんなに綺麗だなんて思わなかった。



「宮原……あさきくん?」

 あぁ、またか。

朝紀ともきです。先生」

「あ、ごめんなさい。朝紀さんね」

 かん高い声が慌てて修正する。それもわざわざご丁寧に『さん』を強調して。そんなことをしても、男に間違えたことに変わりはないのに。

 進級後、この間違いがある度に朝紀は思う。たいていの担任は朝紀の名前を間違え、性別を間違える。新しいクラスになって早々、名簿だけで判断するのだから仕方ないとも思うけれど、少なくとも座席は名前の順に並んでいるのだ。そこに座っている人間を見れば、男か女かくらいは分かるだろうに、大人ってやっぱり馬鹿。

 はあ、と口から零れた小さなため息は、春の甘い風に混じって外へ消えた。うつむいた拍子に落ちてきた長い髪を耳にかける。生まれつき茶色がかったこの髪が、自分を『派手な子』という部類にカテゴライズする要素になっているのを朝紀は知っていた。けれど、友達や見知らぬ先生にわざわざ説明するつもりはない。朝紀にとって、今の分類は何かと都合がいいからだ。地味で冴えない連中は寄ってこないし、豊富な話題を持った本当の『派手な子』とも仲良くできる。多少の悪事だって多めに見てもらえる。それは、退屈な毎日を過ごすのに朝紀に最低限必要な刺激だった。

 校則だとか、マナーだとかそんなものでガチガチに縛られるのが大嫌いなのはきっと自分だけじゃない。大人たちは「守っているんだ」と言い訳をして狭くて強固な繭で子供を覆う。それが実は子供にからまって、今にも窒息させそうになっているなんて気がつかずに。

朝紀の茶色い髪は通気口だ。息苦しい繭の中で呼吸がしやすいようにつくられた小さな窓。規則のすき間をすりぬけて少しだけ手に入れた自由。朝紀はそのすき間を生まれつき手に入れていたラッキーな人間だ。それでもなお、日々はおそろしく退屈で息苦しい。

新しい担任が今後の心構えを熱く語っている。どれも耳にタコができるほど繰り返し聞かされたものだ。ついさっきだって始業式で校長が言っていた。

「二年生の自覚を持って……勉強を本格的に……自立した精神を……(以下略)」

 あーあ、つまんないなあ。

 机にへばりつくようにして突っ伏し、目線を窓の外に送る。窓際の席の特権は、いつだって空が見られることだ。

 水彩画のような淡い青の空に、薄く流れていく雲。少し金色がかった太陽。雀が二羽、じゃれあいながら飛んでいく。

 空は好きだ。何も急かさないし、答えを求めない。早く県大会に出られるようになれとか、将来の夢は何だとか、テストの成績はどうだったとか、そんな言葉を投げつけたりしない。でも、人はみんなそれを聞くのだ。言われてもどうしようもないことや聞かれても答えのないものを、繰り返し延々と。朝紀はその度に相手をひっぱたきたいと思ってしまう。自分が一番苦しんでいるところを無神経にグサグサと指摘して迫ってくるのが、むかむかして鬱陶しくてたまらない。もちろん、実際にひっぱたいたことはないけれど。

 四月六日、水曜日。晴れ。宮原朝紀はいつもの日常を刻むはずだった。



 午後三時過ぎ。友達に誘われたテニスの自主練習を終えた後、朝紀はひとり大通りを歩いていた。汗でじっとりとぬれたTシャツが嫌で着替えた制服は、やぼったくて逆に暑い。うんざりして、何だかこんなことをしている自分がみじめになってくる。

「ねえ朝紀ぃー、これいらない?」

 ホームルーム後、お昼の菓子パンを食べながらいわゆる『派手な子』の美里みさとが手に持った紙をひらひらさせて言った。

「何それ」

「うちのお母さんの知り合いの……何だっけ、とりあえずカメラマンの個展のチケットなんだけどさあ。お母さんに無理矢理渡されたんだよね。正直あたし、こういうの興味ないし、捨てちゃおうと思ったんだけど」

「じゃあ何で今でも持ってんの」

「それがさぁ! うちのお母さん、その人にもうあたしが行くって言っちゃったらしいんだよねー。そしたらそのカメラマン、あたしの名前があるか記名帳でチェックするつもりらしくて。超余計なお世話じゃない? そんで、朝紀にお願いなんだけど」

「私が代わりに行って名前を書いてほしいってわけ?」

「さっすが朝紀。ものわかりが良い!」

 美里がパチンと指を鳴らす。そして、何度も男たちを魅了してきた可愛らしい顔に満面の笑みを浮かべる。嫌な予感的中。

「ね、お願い! 名前さえ書いてくれたらさっさと帰っていいから」

「えぇー……美里が行けばいいじゃん」

「それが嫌だから朝紀にお願いしてるの。あたし、カメラマンのおっさんの為に割く時間なんてないもん。そんな時間あるなら、とっとと渋谷に買い物に行く。ね、いいでしょ。お礼に来週遊ぶときのお昼ご飯おごるから」

「もう。しょうがないな」

「やったぁ! 朝紀大好きっ! はい、これ」

 喜んだ勢いで抱きついてくる美里にされるがままになりながら、長方形のチケットを受け取る。薄桃色の紙に黒く『佐山さやま義彦よしひこ個展・拾い集めた景色』の文字。面倒な気持ちが顔に出ないように気をつけながら、朝紀はその紙をもてあそんだ。

 そんなわけで、嫌なことは早く終わらせてしまうにかぎる。朝紀は美里が書いた簡単な地図を手に目的の場所を探している。守山デザインビル三階、スカイホール。単純な名前のくせに、なかなか見つからない。断らないことで関係の円滑さを保った自分に嫌悪。探し疲れて、さっさと家に帰って別の日に来なかったことを後悔し始めたときだった。

『佐山義彦個展~拾い集めた景色~

 空気までも映しこむ印象派 期待の新鋭写真家初の個展』

 目に入った小さな看板。随分大仰な言葉がおどっているわりに白い板に黒一色の冴えないデザイン。

 名前も知らない、興味もないカメラマンのおっさん。佐山義彦。 

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