第二章 高校の同級生とはじまる、奇妙な同居。愛おしいけど、憎かったりもして、どうしようもなさが募るなか、それでも僕は――

人権の時代

 都心の、最新型コンピュータが並ぶスマートなオフィス。

 時間通りに出社すると、暑苦しい先輩が、暑苦しく僕の肩を抱いてきた。……いつもの、という感じで、もう慣れはしたけれど。


「おうおう来栖、おっはよーちゃーん」

「……おはようございます」


 僕は口もとに手をやる。あくびを噛み殺したつもりだったけど、彼は目敏かった。


「出社直後からあくびとは景気がいいじゃねえか。昨晩はオンナノコとお楽しみかあー?」

「……違います」


 交際している相手なんて、いないし。

 そもそも、言い方、古すぎるし。


 彼は口を大きく開けて、がはは、と豪快に笑った。笑い声が、耳に突き刺さる。

……朝から元気だ。起き抜けにステーキでも食べているのではないか。そうでもないと、説明のつかないテンションだ。


「相変わらず来栖は純情ボーイだなあ。オンナノコってのはな、必ずしも交際相手のことを指さないんだぜえ? 夜のオタノシミはいろんな楽しみ方がある。ナンパした娘に財布を抜かれるのも一興、キャバ嬢に財布扱いされるのもまた、一興……」


 杉田すぎた先輩の天然パーマの頭に、ポスンとファイルケースが直撃した。


 いてっ、と声を上げて恨めしそうに笑う杉田先輩の前には、呆れ顔のたちばなさんが立っていた。今朝も銀縁眼鏡がきまっている。


「ねえ、すぎちゃん。朝からバカなことをうちのルーキーくんに言わないでくれる? いまどき倫理監査の査定も厳しいの、知ってるでしょう。くるちゃんが本気で訴えたら、一発でパワハラ認定よ」

「さっすが橘さん、朝から超絶真面目っすね! 不肖、杉田馨意かおい、勉強させていただきまっす!」

「そうね、アンタはもっと勉強が必要かもね」


 橘さんは手をひらひらと振り、僕たちを促した。


「さあさあ、わがチームもさっさと朝礼行くわよー」


 橘さんは僕と杉田先輩の背中を両手で押していく。

 ぺったりとした、手の感触。


 ……ああ、南美川さんはすでにこの手も失っているんだな、なんて。

 そんなことを、思った。


 ほかの社員たちも、三、四人のチーム単位で会議室に移動しはじめている。

 橘さんは、廊下の途中で背中から手を離すと、ぽそりと息を吹きかけるようにして言う。


「ね、くるちゃん。杉田のこと、憐れなセンパイだなって思って、訴えないでやってね?」


 その言葉は冗談めいていたけれど、どこか切羽詰まった真実味があった。

 倫理監査局は厳しいのだ。いまはそういう時代。人間には、人権がある。僕は人間だから、人権がある。杉田先輩のいまのおふざけだって、訴えれば、パワハラとして結構な問題になるだろう。


 敏感だ、ということだ。なにごとも。


 人権、それは現代において非常に大事な価値。

 すべてのホモ・サピエンスを人間とみなすから、社会に余裕がなくなる。人間全体の幸福のために、「人間の再定義」をすべきだ――そう言って、ヒューマン・アニマル制度を提唱して。

 当時は激しい批判を浴びて頭がおかしいとまで言われたけれど、結局それを最終的に実現させたという、あのすごい学者は、……やはりそろそろ教科書にも載るのだろうか。


「……訴えませんよ。でも、もしも――もしもですけど。僕が杉田先輩を倫理監査局に訴えたら、どうなるんですか?」

「え?」


 橘さんが、心配そうに眼鏡の奥の眉を寄せる。


「いや、実際に訴える気はないんです。ただ……ちょっと気になっただけで。お金とか、ポイントとか、ついたりするのかなって」

「へえ、珍しいじゃない。くるちゃんが制度のことを気にするなんて。いつもは社会とか制度には興味ありません、プログラミングだけですー、って顔してるくせに」

「……そうでもないです。別に」


 それは、別に。


「ふふ。そうね。でも、くるちゃんは社会のことをほとんど知らないはずよ。いまの時代、みんなそう。社会の仕組みはガッチガチの規制がかかっていて、専門職――つまり私みたいなソーシャルのプロじゃなきゃ触れないの。くるちゃんも、すぎちゃんも、私を通さなきゃ制度にタッチできない。常識でしょ?」


 そこで一拍置いて、橘さんはわざとらしく肩をすくめた。


「もちろん、私はガイドラインに沿ってしか情報を提示できないんだけどね」


 あくまでも、歩くペースは崩さずに話す。

 廊下の壁が、ただ移動していくかのようで。本当は、僕たちがただ淡々と、ロボットのように脚を動かしているだけなのに。


「パワハラと認められた場合、気になるのは二つね。金銭の譲渡があるかどうか。それからポイント──補償としての社会評価ポイントが出るかどうか」

「……はい」

「その質問はガイドラインに抵触しないから、この場で答えられるわね。まず、倫理監査局に訴え出ると、人工知能──私たちであれば、Necoの記録を調べる。あからさまなパワハラなら、もうNecoが検知しているはずだから」


 両手を頭の腕で組んで、口笛を吹く杉田先輩が、角で曲がる。

 他のチームの姿も多くなってきて、ささやきのような雑談が満ちる。


「訴えまでいくのは大抵グレーな案件よ。黒でも白でもない。そのグレーをどちらかに振り分けるのが、倫理監査局の仕事なの」


 それとね、と言って、橘さんはわずかに声を落とす。


「加害者とされる側と被害を訴える側。その社会的立場の差も調べられる。もともと当事者双方が保持している社会評価ポイントの差異は、結果に大きく響くの」


 心臓が、情け容赦なく掴まれたかのように苦しくて。

 ……けれども僕は淡々と歩く。

 歩調と同じスピードで、ただ流れていくかのような会社の景色を。長い前髪で、覆い隠しながら。遮りながら。

 やっぱり、髪を長くしてよかった。目元を読み取られる心配が、表情を、……気持ちを読み取られる可能性が、わずかであっても減ると思えるから。


 社会評価ポイントの差異──。

 ……覚えがある。というよりも、身に沁みて、知っている。……文字通り、身に沁みて。

 僕は、高校でいじめられたけれど。

 僕をいじめてくるひとたちは、僕より優秀だったから――。

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