同質な笑み
「そして、もしパワハラと認定されたとしても、直接お金が発生することはないの。現金で賠償します、と当事者同士が合意した場合だけ。でもそれはもう、現代ではかなりのレアケース。社会評価ポイントとはまったく無関係よ」
直線ばかりで、どこに行っても灰色で、代わり映えのしないオフィス。
「でも、どうして急にそんなことが気になったの?」
「……ちょっと、やりたいことができまして」
角を曲がる。角を曲がってもまた、直線。
「その目的のためには、ちょっと、……お金とか立場が、必要かなって」
「ふうん……そこは個人の範疇だから、私はタッチしないけど。……変なことはやっちゃ駄目よ? ただでさえ――風通しの悪い世の中なんだからね」
僕は、黙ってうなずいた。
曲がった先の廊下。少し前方では、杉田先輩が大きな声で他の社員と話している。
……相変わらず、どこでも友達のような関係を作ろうとする人だ。
橘さんは少し駆け足で、杉田先輩に追いつく。
「ねえ、杉田。アンタの暑苦しさで、くるちゃん本当に苦しんでるかもしれないから、本当に気をつけてね」
「えっ? 俺、だいぶパワハラ野郎みたいになってません?」
「実際そうでしょ。寛大なくるちゃんに感謝しなさいよね」
「コミュニケーションじゃないっすか、ただのコミュニケーション!」
杉田先輩と話していた社員さんは、苦笑とともに軽く手を振り、前を行き。
僕と杉田先輩と橘さんは、また、三人で歩き始める。
会議室が近づくにつれ、人が増える。ジャケットに、パンツに、スカート。
どんな服装でも、多少の差し色があるくらいで、みんな似たような格好をしている。モノトーンにパステルカラーの小物。弁えた社会人の色に、ほんのわずかに加えられた個性と優しさ。
実に、現代的だ。節度をもったざわめきも、気遣いにあふれた会話も。
朝のオフィスは、ロボットが働く工場のベルトコンベアよりもなお秩序立っている。
「……あの。僕、ペットのワンちゃんを飼いはじめたんですよ」
こんな、プライベートなこと。
普段だったら、話そうとも思わないけれど。
「あら、そうなの」
「昨日、仕事帰りに……ちょっと、衝動的に。それで昨日、ちょっとばたばたで、寝るのも遅くなっちゃったんです」
「なんだ、それで朝から大あくびかよ」
「……はい」
「でもいいよな、犬。可愛いし、懐いてくれるし。絶対裏切らないし!」
「ペットかあ。私はあんまり飼う気しないな、責任取れる気がしなくて」
犬──その言葉は、昔ながらの動物としてのイヌも、人犬も指す。
それらは、いわば「犬種」の違いでしかなくて。ポメラニアンか、ゴールデンレトリバーか、人犬か。それくらいのものだ。
余程の犬好きでもない限り、わざわざ犬種までは聞かれないのだな、と──思った。
「……あの子のおかげで、人生が再スタートするかもしれないなって、思ってます」
杉田先輩も、橘さんも。
見た目も性格も何もかも違うのに、同じような表情を浮かべた。
薄氷よりも薄く、温度のない、同質な笑み。
僕はその表情をよく知っている。
理解できない。だから肯定しないけど、否定もしない。面倒だから。コストがかかりすぎるから。
きっと、そういう、シグナルだ。
もうすぐ会議室に到着する。夜の六時までは、仕事だ。
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