そして、カップラーメン

 べつに南美川さんにもごはんくらいあげるつもりだったけど、いらないと言われた。

 ホットミルクでおなかいっぱいなんだそうだ。……ホットミルクだけで。たしかに栄養価あるけど、液体だよ、それ。

 けど、南美川さんは頭のてっぺんの耳を穏やかな角度で立てたまま、ふるふると首を振った。さきほどよりも仕草がすこし緩慢になり、表情も和らいでいる。本気で、いらなそうだった。


「こんなちゃんとした食事、人間のとき以来だわ」


 ……牛乳ひとつでそこまで満足してしまうような、生活だったのだから、――やはり。

 どのような地獄の食事をしてきたのか、具体的には僕はまだ知らないが――よほど人間的でなかったことだけは間違いない。まあそうか。人間じゃない、んだからな。人犬という、動物なんだからな。

 いまの南美川さんにとっては、温めた牛乳など、確かに夢のようなごちそうなのかもしれない。

 実際、胃袋もすでに人犬としてのそれになっているだろう。そう思って、今日のところはあえて南美川さんにそれ以上の食物を与えないことにした。


 時刻はすでに零時を越えていた。僕は明日……というか、日付的には今日も普通に仕事だ。

 十時出社という朝の弱い人間に優しい会社ではあるけど、九時には家を出なくちゃだし、まあどんなに遅くとも八時には起きなければいけない。

 翌日が仕事の日は、夜型の僕でもさすがにこのくらいの時間にはベッドにもぐって電気を消すことにしていた。


 だけども、今日は――ベッドに腰かけた僕の膝の上に、南美川さんがいる。

 ちょこんと。


 ……あの南美川幸奈が、ちょこん、と。


 僕の膝の上に。犬の前足となった両手を乗せて、僕をじっとつぶらな瞳で見上げていた。……犬が、なかなか堂に入ってる。


「……あなたは、食事をしないの?」

「ああ、その、今日はいっかなって。南美川さんが来た日だし。ホットミルクもさっき少し飲んだし」

「ふうーん……」


 南美川さんは犬のように四つ足で伸びをした。僕の膝の上で、器用に。

 リリン、と首輪の鈴が鳴る。……乳房が揺れてる。僕の目には、毒。

 

 彼女は伸びをした姿勢のまま、顔をうつむけて、白い背中をもっとぴんと伸ばした。


「……ねえ。わたしのこと、やっぱりほんとは恨んでるんでしょ?」


 伸びを終えて、南美川さんは僕の身体からそっと離れた。

 そして彼女は、ベッドの上に伏せる。……犬のように。やっぱり、どこまでも、犬がそうするように。


「うーん。それは難しい質問だね」

「単純明快な話じゃないの?」

「……恨んでる、といえば、恨んでる、かな。……けどそれだけだったら、僕はわざわざあなたを購入しなかったと思うんだ」

「どうして? 良い復讐になるじゃない。犯すのも、殺すのも自由なのよ」


 うーん、と僕はまたしても唸った。

 さてはて、どう言ったものか。

 南美川さん本人に、これはもちろんかかわることで――けど、南美川さん本人にさえも、僕はそのことは、言いたくないのだ。


「……まあ。僕さ、キモいじゃん。でさ。いまの僕に再会してみて、どうだった? 印象とかって」

「……髪が、すごく、長い」


 あはは、と僕は笑った。


「でしょう。あの刈り上げとライターがトラウマだったな」

「……ごめん、なさい」

「いいよ。過去の話だ。……南美川さんがあのきれいなネイルの手でライター使って僕の頭を坊主頭にしたことも、もう、全部。もう、南美川さん、手もないんだし。……よく覚えてる。よく覚えてるけど、僕は」

「……あの、やっぱり、」

「だから僕はあなたに感謝してるんだ」


 言った言葉は、ぼそり、とひとりごとのように響いてしまって――。


「僕は、……南美川幸奈さん。あなたに、恩返しをさせてほしい」

「え……? どういうこと?」


 南美川さんは、不安そうな顔をしていたけれど。

 わからなくていい。南美川さん。……いまは、まだ。

 

 僕はスマホで時刻を見た。……もうすぐ、深夜一時になる。


「ごめん。南美川さん。僕はそろそろ眠らなくちゃいけないし、明日は仕事に行かなきゃいけない。……あなたをこの部屋に置いていかなくちゃ、いけない。不安になるだろうけど……僕のことを信じて、待っていてくれるかな。僕は、あなたをいじめない。犯さないし、殺さない。あたたかいところで、おいしいごはんをあげるよ。……信じていてくれるだけで、全部、悪いようにはしないから。たとえば南美川さんがほんのすこしでも自分を傷つけようとしたら、僕はあなたの四肢を拘束してタオルをかませなきゃいけなくなる。……嫌だろ?」

 

 南美川さんは、こくんと子どものように聞き分けよくうなずいた。

 

「うん。いい子だ」

「……さっきも言ってたけど。あなたはいま社会人、なのよね?」

「一応ね。AI産業のプログラム屋だ」

「……そう。がんばったのね」

「そうでもないよ。……僕はあのまま、引きこもりのままもう一年も経てば、たぶんヒューマン・アニマルの施設に売られてたよ」


 ……沈黙。


「さて、寝よう、南美川さん。まだあなたを入れるケージが来てないし、予備の布団もないんだけど……どこで寝る?」

「……わたしは、どこでも。部屋のすみっこでも……」

「風邪引くよ、今日は寒い。……じゃあ、このままベッドで寝て」

「……そんなわけに、いかない」

「どうして。いいよ。むしろそこで寝てくれたほうが、部屋のスペース的にも助かる。……僕はちょっとやらなきゃいけない仕事があるから、南美川さん、とりあえず眠りなよ」


 僕は、立ち上がった。

 南美川さんはなにか言いたそうに僕を見ていたが、やがて呑み込んだように、素直にうなずいた。


「……ぜったい、どこにも、行かないでね」

「行かないよ。ここで仕事してるから。……これまで、ちゃんと眠ってないんでしょう? どうせ」

「……ずっと、寒かったから。ずっと、檻のなかだったから」


 僕はバサリ、と布団を南美川さんの身体にかぶせた。南美川さんは、きょとんとする。

 首だけちょこんと出ている南美川さん。こうして見れば、全然、高校時代のままなのに――ぴょこんと生えているその犬耳を除くならば。


「暑かったり、寒かったりしたら、遠慮なく言って。……僕は南美川さんを暑くも寒くも、させないから。それと。……いろいろ、ごめん。身体を拭いたり、ミルク飲ませたとき……僕も情緒不安定なんだ。わかってください。……ごめんね」


 南美川さんは、ぱちくりとまばたきをした。

 そして、小さく笑った――その自信ありげな笑いかたは、ああ、やっぱり彼女だ。しみじみと、彼女だ。

 

「……さっき、あなた、言ってたわよね。わたし、このすがたでも、かわいい? ほんとに?」

「うん。とても、かわいいよ」

「よかった。……こんなすがたになったわたしをかわいいなんて言ってくれたのは、シュンだけよ」

「うん。……さあ、もう寝よう南美川さん。よく、休んで。……おやすみ」


 南美川さんはもういちど小さくにっこりすると――とろん、と目を閉じた。

 ころんと、横になって。布団の下では、犬の四肢を投げ出して眠っているのだろう。


 僕はカーペットの上に座り、ローテーブルに向かって、スマホでソシャゲのログインボーナスをもらってクエストを消化した。

 家でやる仕事なんて、本当はない。僕の仕事は、職場で完結している。……南美川さんに言ったのは、小さな嘘だ。


 南美川さんは、すぐに寝息を立てはじめた。クエスト一周の時間もかからなかった。とても穏やかな寝息。

 立ち上がり、上から覗き込むと、その横顔は今日見たなかでいちばん穏やかだった。


 ……きっとこんなに安心できたのは、ひさしぶりのはずだ。


 さて。

 僕は背伸びをして、コキコキと肩の骨を鳴らす。スイッチを押して、部屋の電気を常夜灯にする。南美川さんが動いた気配は、なかった。

 そしてスマホを携え、カップラーメンを作るべく台所に向かった。


(第一章、おわり。第二章へ、つづく)

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