そして、カップラーメン
べつに南美川さんにもごはんくらいあげるつもりだったけど、いらないと言われた。
ホットミルクでおなかいっぱいなんだそうだ。……ホットミルクだけで。たしかに栄養価あるけど、液体だよ、それ。
けど、南美川さんは頭のてっぺんの耳を穏やかな角度で立てたまま、ふるふると首を振った。さきほどよりも仕草がすこし緩慢になり、表情も和らいでいる。本気で、いらなそうだった。
「こんなちゃんとした食事、人間のとき以来だわ」
……牛乳ひとつでそこまで満足してしまうような、生活だったのだから、――やはり。
どのような地獄の食事をしてきたのか、具体的には僕はまだ知らないが――よほど人間的でないことだけは間違いない。まあそうか。人間じゃない、んだからな。人犬という、動物だから。
そんな食事を一年半もしていれば、たしかに温めた牛乳など、夢のようなごちそうなのかもしれない。
じっさい、胃袋がすでに人犬としてのそれになっているだろう。そう思って、僕はあえて南美川さんにそれ以上の食物を与えないことにした。
時刻はすでに零時を越えていた。僕は明日……というか、今日もふつうに仕事だ。十時出社という朝の弱い人間に優しい会社ではあるけど、九時には家を出なくちゃだし、まあどんなに遅くとも八時には起きなければいけない。翌日仕事の日は、夜型の僕でもさすがにこのくらいの時間にはベッドにもぐって電気を消すことにしていた。
だが、きょうは――ベッドに椅子のようにして腰かけた僕の膝の上に、南美川さんがいる。
ちょこんと。
……南美川幸奈さんが、ちょこん、と。
僕の膝の上に、金色の犬の前足となった両手を乗せて、僕をじっとつぶらな瞳で見上げていた。……なかなか犬が堂に入ってる。
いやー。すごいよなー。……だって南美川幸奈さんだよ? すごすぎる。
「……あなたは、食事をしないの?」
「ああ、その、きょうはいっかなって。南美川さんが来た日だし。ホットミルクもさっき飲んだし」
「ふうーん……」
南美川さんは犬のように四つ足で伸びをした。リリン、と首輪の鈴が鳴る。……乳房が揺れてる。僕の目に毒。
そんな彼女は伸びをした姿勢のまま、顔をうつむけて、白い背中をもっとぴんと伸ばした。
「あの、さ。わたしのこと、やっぱりほんとは恨んでるんでしょ?」
伸びを終えて、南美川さんは僕の身体からそっと離れた。僕のベッドの上に、犬のように伏せる。
「うーん。それは難しい質問だね」
「単純明快な話じゃないの?」
「……恨んでる、といえば、恨んでる、かな。……けどそれだけだったら、僕はわざわざあなたを購入しなかったと思うんだ」
「どうして? 良い復讐になるじゃない。犯すのも、殺すのも自由なのよ」
「うーん……」
さてはて、どう言ったものか。
南美川さん本人に、これはもちろんかかわることで――けど、南美川さん本人にさえも、僕はそのことは、言いたくないのだ。
「……まあ。僕さ、キモいじゃん。わりと」
「わたしはそれを肯定して、殺されない? 犯されないかしら?」
「そろそろ信用してくれたほうが僕も無駄に怒らないで済むかな」
「……うん。じゃあ言うけど、そうね。あなたは、高校時代に……おもしろかった、から」
「キモくて滑稽だったんだよね、どうせ。玩具として適任だったんだろ」
南美川さんは、恥ずかしそうにうなずいた。
「でさ。いまの僕に再会してみて、どうだった? 印象とかって」
「……髪が、すごく、長い」
僕はあはは、と笑った。
「でしょう。あの刈り上げとライターがトラウマだったな」
「……ごめん、なさい」
「いいよ。過去の話だ。……南美川さんがあのキレイなネイルの手でライター使って僕の頭を坊主頭にしたことも。もう、南美川さん、手もないんだし。……よく覚えてる。よく覚えてるんだよ、僕は」
「……あの、やっぱり、」
「だから僕はあなたに感謝してるんだ」
ぼそり、とひとりごとのように響いてしまって――。
「僕は、……南美川幸奈さん。あなたに、恩返しをさせてほしい」
「……え……言ってる意味がわかんないんですけど……」
「わかんなくて、いいよ。……どうせ僕の考えなんていうのは一般常識的なちゃんとしたひとたちには、理解不能なものなんだ」
南美川さんは渋い顔をした。
僕はスマホで時刻を見た。……もうすぐ、深夜一時になる。
「ごめん。南美川さん。僕はそろそろ眠らなくちゃいけないし、明日は仕事に行かなきゃいけない。……あなたをこの部屋に置いていかなくちゃ、いけない。不安になると、思う。けど……僕のことを信じて、待っていてくれるかな。僕は、あなたをいじめない。犯さないし、殺さない。あったかいところで、きっとおいしいごはんをあげる。……信じていてくれるだけで、それがすべてかなうんだ。たとえば南美川さんがほんのすこしでも自分を傷つけようとしたら、僕はあなたの四肢を拘束してタオルをかませなきゃいけなくなる。……嫌だろ?」
南美川さんは、こくんと子どものように聞き分けよくうなずいた。
「よし。いい子だ。……僕にも、生活がある。わかってほしい」
「……社会人、なのよね?」
「ああ、いちおうね。AI産業のプログラム屋だ」
「……そう。がんばったのね」
「そうでもないよ。……僕はあのまま、引きこもりのまま一年すれば、きっとヒューマン・アニマルの施設に売られてたよ」
……沈黙。
「さて、寝よう、南美川さん。まだ檻が来てないし、予備のふとんもないんだけど……どこで寝る?」
「……わたしは、どこでも。部屋のすみっこでも……」
「風邪引くよ、きょうは寒い。……じゃあ、このままベッドで寝て」
「……そんなわけに、いかない」
「どうして。いいよ。むしろそこで寝てくれたほうが、部屋のスペース的にも助かる。……僕はちょっとやらなきゃいけない仕事があるから、南美川さん、とりあえず眠りなよ」
僕は、立ち上がった。
南美川さんはなにかを言いたそうに僕を見ていたが、やがてのみこんだように、素直にうなずいた。
「……ぜったい、どこにも、行かないでね」
「行かない。ここで仕事してるから。……ちゃんと眠ってないんでしょう? どうせ」
「……ずっと、寒かったから。ずっと、檻のなかだったから」
僕はバサリ、と布団を南美川さんの身体にかぶせた。きょとん、とされる。首だけちょこんと出ている。こうしていればぜんぜん高校時代のままなのに――ぴょこんと生えているその犬耳を除くならば。
「暑かったり、寒かったりしたら、遠慮なく言って。……僕は南美川さんを暑くも寒くも、させないから。それと。……いろいろ、ごめん。拭いたり、ミルク飲ませたとき……僕も情緒不安定なんだ。わかってください。……ごめんね」
南美川さんは、ぱちくりとまばたきをした。
そして、小さく笑った――その自信ありげな笑いかたは、ああ、やっぱり南美川幸奈さんなんだよなあ。
「あの、ね。わたし、このすがたでも、かわいい? ほんとに?」
「うん。とても、かわいいよ」
「よかった。……こんなすがたになったわたしをかわいいと言ってくれたのは、シュンだけよ」
「うん。……さあ、もう寝よう南美川さん。よく、休んで。……おやすみ」
南美川さんはもういちど小さくにっこりすると――とろん、と目を閉じた。
横になって、犬の四肢を投げ出して、そこに収まっている。
僕は机に向かって、スマホでソシャゲのログインボーナスをもらったうえでクエストを消化していた。家でやる仕事なんて、ほんとはない。僕の仕事は、職場で完結している。……南美川さんに言ったのは、小さな嘘だ。
南美川さんは、すぐに寝息を立てはじめた。クエスト一周ほどの時間もかからなかった。とても穏やかな寝息。立ち上がり、上から覗き込むと、その横顔はきょう見たなかでいちばん穏やかで幸福そうだった。
……きっとこんなに安心できたのは、ひさしぶりのはずだ。
さて。
僕は立ち上がり、背伸びをしてコキコキと骨を鳴らす。スイッチを押して、部屋の電気を寝るとき用の小さなものにする。南美川さんが動いた気配は、なかった。
そしてスマホを携え、カップラーメンを作るべく台所に向かった。
(第一章、おわり。第二章へ、つづく)
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