ホットミルク

 僕は台所で、電子レンジを使って牛乳を温めている。

 ほんとうは食事を作りたいところだが、南美川さん的な事情でやむを得ず、だ。


 居間と台所の仕切り扉は開けっ放しだ。暖房は逃げてしまうけれど、僕が扉の外に行こうとすると前足の肉球で僕の足もとにすがりついて、やだ。行かないで、と言って、また泣きそうな顔をする。


 子どもがえりみたいだった、……もっと悲惨な感じがした。


 そんなひとでは、……なかった、すくなくとも高校時代は。わがままで気まぐれではあるけど、芯は強くて、だれかが――というか、僕がすがりついてもニヤニヤ笑いで冷たく見下して僕を切り捨ててくるようなひとだった。まるで子ども……いや、精神までが飼い犬になってしまったかのようで――そこまで思って僕は思い直した。当然といえば、当然なのだ。――南美川さんはきっと一年半の施設の時代に、そうなるように、加工として、心をガシャンと破壊されたのだから。


 僕はしゃがみ込み、南美川さんの顔に視線を合わせて、優しく説くように言った。


「南美川さんを置いていったりしない。けど、僕も南美川さんも、なにか温かいものを食べたほうがいい。そうじゃない?」

「……あたたかい、もの?」

「そんな言葉を覚えたてのように言われましてもさ……。あたたかいものだよ。食べたいだろう?」

 南美川さんはまたしてもふるふると首を横に振った。

「あたた、かい、ものなんて、もうずっと食べてないから……わからない……」

「ああ――ああ、そうか。……だったら、僕が食べさせてあげるから。ちょっとだけ、良い子で待ってて。ね?」

「どのくらい?」

「うーん、冷蔵庫のなかのもので適当に作るとして、五分とか十分とか……」

「――そんなに待てないっ! やだ、やだ、やだぁ……やだよお。エサなんていらない。もう寝よう?」


 僕は息を吐きながら立ち上がった。後頭部を軽く掻く。


「……僕があなたに与えるのは、『エサ』じゃないよ。食事だ。じゃあ、一分。一分間でいいから、そこで良い子にしてて」


 僕は南美川さんに語りかけながら、南美川さんの首から伸びる鎖を、こんどはさきほどと違いめいっぱいに伸ばして――けれどもちゃんと、パソコンデスクの脚につないだ。このくらい鎖を伸ばしていれば、部屋の奥半分くらいは自由に行き来ができるはずだ――ただし、それだけのことなのだけれども。


 つなぐの? とでも言いたげに、南美川さんが僕を見上げる。……うう、と思うけれど。


「この扉、そこからでも僕が見れるように開け放っておくから。……待ってて。ね」


 僕はそう言うと、南美川さんの重たい視線に後ろ髪を引かれる思いをしながらも、ホットミルクづくりに取りかかった。


 ……電子レンジのオレンジ色のなかで牛乳がパツパツと温まっていく。

 僕はそのひとつひとつの泡の方向に向かって、ほとんど唇の動きだけで、ひとりごちる。


「……僕のトラウマだってあなたにつくられたんだけどもねえ」


 まあ――トラウマゆえ、そしてどっときた安心ゆえの精神退行だって、わかっては、いるつもりなのだけれども。うん。

 ……うん。



 僕はホットミルクをなみなみと注いだ大きめのマグカップと――あとは浅い皿を両手で持って、居間に戻ってきた。背中をうまく使って、扉を閉める。


「……南美川さん。できたよ、ホットミルクだよ。どうやって飲む? ……いちおう、何種類か方法は考えてあるんだけど。南美川さんは、どうしたい?」

「……どうしたい、って言っても」

「液体ってどうやって飲んでたの?」

「……お皿で」

「犬のエサ皿? 舐めとって飲んでたの?」


 南美川さんはまたしても恥ずかしそうにこくりとうなずいた。

 僕は、すこしのあいだ思案する。


「じゃあ、これだ」


 コトン、と南美川さんの目の前に置いたのは――浅い皿だった。

 僕は南美川さんの顔をしいて見ないようにしながら、そこにトポトポとできたてのホットミルクを注いだ。


「……僕はさ、南美川さん。なんども言うようだけど、ほんとうにあなたのことを殺さないし犯さない。僕はあなたとの再会を喜んでいる。……けど、なんでだろうね。なんなんだろうね。……人間って単純じゃないね。僕はあなたがそうやって這いつくばるところももっと見たいなと思ってしまう」


 トポ、とホットミルクをその器にもなみなみと注ぎ終わる。僕は静かに暗い視線を持ち上げた。


「こんな僕で、こんな僕が飼い主で、ごめんね。僕は――正直、いまとても嬉しいんだ」


 南美川さんは、キッと僕を睨むようにして見上げた。……ああ、それだよ、それでこそ南美川さん。


「……飲んでくれるかな、そのまま、舌で」

「それは、命令?」

「……うん」

 南美川さんは、ふっ、とうつむいた。きれいな金髪もすだれのように垂れ下がる。

 そしてそのまま器に顔を近づけると、ぴちゃ、ぴちゃ、と音を立てて温かい白い液体を舐めとるようにして摂取しはじめた。

 うつむき加減で固定されたその表情は、あんがい、静かで――その表情の当たり前さが、これこそが南美川さんのあのあとの日常だったんだ、と僕は体感的に理解した。

 ……情動が、突き抜ける。


「……おいしい?」


 返事はない。どうやら飲むのに夢中なようだ。

 加速していくぴちゃぴちゃという動物的な音がそののめり込みを示している、と思う。

 僕はそのまま、しゃがんだまま南美川さんがホットミルクを飲むさまを眺めていた。

 ほんとうに――犬らしくなってしまったかつての高校の同級生を。



 ……突き抜ける情動が、あった。

 だから僕は、南美川さんの犬耳つきの無防備な頭を、そわっ、とひと撫でしてしまった、――ああ。

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