ホットミルク

 廊下にある台所。僕は、電子レンジで牛乳を温めた。

 本当は南美川さんのために、食事のひとつでも作ってあげたいのだけども。

 ……彼女の心の事情でやむを得ず、だ。


 リビングと台所を隔てる扉は開けっ放しにしている。暖房は逃げてしまうけれど、仕方ない。

 扉を閉じて、僕の姿が見えなくなると、南美川さんはひどく不安になるらしい。そもそも、廊下に出てくることすらひと苦労だった。僕が扉の外に行こうとすると前足の肉球で僕の足もとにすがりついて、やだ、行かないで、と言って、泣きそうになる、そんな彼女をどうにか説得して廊下に来たのだから。


 子どもがえりのようだった、……もっと悲惨かもしれない。


 そんなひとでは、……なかった、すくなくとも高校時代は。

 わがままで気まぐれではあるけど、芯は強くて、だれかが――というか、僕がすがりついてもニヤニヤ笑いで冷たく見下して、僕を、懇願をすべて切り捨ててくるようなひとだった。

 まるで子ども……いや、精神までが飼い犬になってしまったかのようで――だけど当然といえば当然なのだ。南美川さんはきっと施設にいた時代に、そうなるように、加工として、心をガシャンと破壊されたのだから。


 先程。

 僕はしゃがみ込み、南美川さんの顔に視線を合わせて、優しく説くように言った。


「南美川さんを置いていったりしない。けど、僕も南美川さんも、なにか温かいものを食べたほうがいい。そうじゃない?」

「……あたたかい、もの?」


 そんな、「あたたかいもの」という言葉を、……まるで知らないもののように言われても。

 

「あたたかいものだよ。食べたいだろう?」

 

 南美川さんはふるふると首を横に振った。

 

「あたた、かい、ものなんて、もうずっと食べてないから……わからない……」


 ……そうか。

 

「……だったら、僕が食べさせてあげるから。ちょっとだけ、良い子で待ってて。ね?」

「どのくらい?」

「うーん、冷蔵庫のなかのもので適当に作るとして、五分とか十分とか……」

「――そんなに待てないっ! やだ、やだ……やだよお。エサなんていらない。もう寝よう?」


 僕は息をきながら立ち上がって、後頭部を軽く掻く。


「……僕があなたに与えるのは、『エサ』じゃないよ。食事だ。じゃあ、一分。一分間でいいから、そこで良い子にしてて」


 僕は南美川さんに語りかけながら、南美川さんの首輪から伸びる鎖を、先程と違いめいっぱいに伸ばして――けれどもちゃんと、パソコンデスクの脚につないだ。これで、廊下を覗くくらいのことならできるだろう。


 つなぐの? とでも言いたげに、南美川さんが見上げてくる。


「この扉、そこからでも僕が見れるように開けておくから。……待ってて。ね」


 僕はそして、南美川さんの重たい視線に後ろ髪を引かれる思いをしながらも、ホットミルク作りに取りかかったという次第だ。


 ……古き良き電子レンジのオレンジ色のなかで、牛乳がパツパツと温まっていく。

 僕はそのひとつひとつの泡の動きに合わせるかのように、ほとんど唇の動きだけで、ひとりごちる。


「……僕のトラウマだってあなたにつくられたんだけどもねえ」


 南美川さんのいまの振る舞いはきっと、トラウマゆえ。

 トラウマゆえに。おかしくなって。安心して。すがって。甘えて。……また、不安になって。

 

 だけど──トラウマと言うなら、僕だって。


 電子レンジが、チン、と音を立てて、牛乳が充分に温まったことを知らせる。


 ホットミルクをなみなみと注いだ大きめのマグカップと――後は浅い皿を両手で持って、リビングに戻る。

 両手が塞がっているから、背中をうまく使って、扉を閉める。


「……南美川さん。できたよ、ホットミルクだよ。どうやって飲む? 一応、いくつか方法は考えてあるんだけど。南美川さんは、どうしたい?」

「……どうしたい、って言われても……」

「液体ってどうやって飲んでたの?」

「……お皿で」

「犬のエサ皿? 舐めとって飲んでたの?」


 南美川さんはまたしても恥ずかしそうにこくりとうなずいた。

 僕は、少しの間、思案する。


「じゃあ、こうかな」


 コトン、と南美川さんの目の前に置いたのは――浅い皿だった。

 僕は南美川さんの顔をしいて見ないようにしながら、そこにトポトポとできたてのホットミルクを注いだ。


「……僕はさ、南美川さん。何度も言うようだけど、ほんとうにあなたのことを殺さないし犯さない。悪いようにはしないよ。……けど、なんでだろうね。なんなんだろうね。……人間って単純じゃないね。僕はあなたがそうやって這いつくばるところももっと見たいなと思ってしまう」


 トポ、とホットミルクを注ぎ終わる。なみなみと。

 僕は静かに暗い視線を持ち上げた。


「こんな僕で、こんな僕が飼い主で、ごめんね。僕は――正直、いまとても嬉しいんだ」


 恐れも脅えも恐怖もあるだろうけれど、それでも。

 南美川さんは、キッと僕を睨むようにして見上げた。……ああ、それだよ、それでこそ南美川さん。


「……飲んでくれるかな、そのまま、舌で」

「それは、命令?」

「……うん」

 

 南美川さんは一瞬僕を見つめたけれど、ふっ、と視線を逸らすかのようにうつむいた。きれいな金髪も、すだれのように重たく垂れ下がる。

 そしてそのまま器に顔を近づけると、ぴちゃ、ぴちゃ、と音を立てて温かい白い液体を舐めとるようにして摂取しはじめた。

 うつむき加減のままのその表情は、案外、静かで――その表情の当たり前さは、これこそが南美川さんの日常だったんだ、と体感的に理解させた。

 犬のように、四つん這いで、舐めとるように栄養を摂取するのが当たり前だったのであろう南美川さんの日常──。

 

 ……情動が、突き抜ける。


「……おいしい?」


 返事はない。どうやら飲むのに夢中なようだ。

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃぴちゃと。動物的な音が、加速していく。南美川さんは、ホットミルクを飲むことにのめり込んでいく。

 

 僕はしゃがんだまま、南美川さんがホットミルクを飲むさまを眺めていた。

 ほんとうに――犬らしくなってしまったかつての高校の同級生を。


 ……耐えきれなくなってしまって。

 だから僕は、南美川さんの犬耳つきの無防備な頭を、そわっ、と上からひと撫でしてしまった、――ああ。

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