受け入れる

 南美川さんが落ち着くまでに、一時間くらいかかった。


 僕はその間、南美川さんの小さな身体をすっぽりと包み込んで、抱きしめて、南美川さんの不毛な質問すべてに、誠実に対応した。僕は仕事でも誠実なつもりなんだけど、きっとそれ以上に、つよく、つよく――そんな誠実さをもって。


 僕はこの一時間でいったい南美川さんと、なんど、そしてどれだけの約束を交わしたのだろうか。


 殺さない。犯さない。いじめない。飢えさせない。寒くさせない。熱くさせない。溺れさせない。倒れさせない。殴らない。叩かない。蹴らない。捨てない。そして、殺さない……。


 そのなかにまぎれていた、放置しない、ってだけはちょっとだけ性質が違うかなって思ったけど、まあ、いいや。どさくさにまぎれて、そういうことにしておこう――僕だって、南美川さんを放置するつもりはない。

 なにせ30万円というお金で買ったのだから、……なんて、ね。金額はまあ、たいしたことはない。明日からちょっと食事が質素になるのと、新しいハードディスクの購入を先送りにするくらいで。しばらく外食することも、パソコンを家で趣味としていじることも、きっと少なくなる。……まだ信じられないけど僕の部屋にはこれからずっと南美川さんが、いる。



 ぐす、と南美川さんは僕の胸から頭を離し、ようやくその顔を見せてくれた。僕もほっとして、冗談を言う。……むかし懐かしの、校長先生みたいに。


「南美川さんが落ち着くまでに、一時間くらいかかりました」

「……なによ。おもしろくもないこと言うのね――あっ」


 ふっ、と笑顔が見れそうだったのに――その顔はすぐに恐怖に染まる。しゅん、とうつむくのだ――髪とおそろいのその金色の犬耳にもちゃんと神経が通っているわけだから、おそらくは感情と連動して、ぺたりと垂れてしまった。


「どうしたの?」

「……あの。ごめんなさい。わたしがそうやって笑っちゃ……いけないんだわ」

「どうしてよ。僕は南美川さんが、まあ笑わないよりは、笑ってくれたほうがいいけど」


 南美川さんは本気で信じられない、みたいな顔で僕を見上げた。


「……嘘でしょ?」

「そこ疑う?」

「……だってあなたはわたしの飼い主だわ。あなたの言ったことに笑うなんて……生意気じゃない」

「……施設でも、そうやって、教えられたの?」


 南美川さんはこくりと恥ずかしそうにうなずいた。


 施設――ヒューマン・アニマルの加工施設だ。まだ断片的な話しか聞けていないが、南美川さんはどうやら、一年を越える過酷な時間を、おもに愛玩目的の個体が集められる調教施設で過ごし、あとは反抗的な個体のための超調教施設に数か月、そのあとに労働用の個体の施設に移され、もう明日にも畜肉処分かというときに、ひょんなことであのペットショップに移されたらしい。……あの店長の話とも、合致する。


 それは、……過酷ないじめられっ子だった僕でさえも、想像のつかない、つらさであったに、違いない。


 僕は、すくなくとも人間だった。人権が、あった。高校時代がああまで惨めでも、いま僕は、自分の意思で社会人をやれているくらいには人間だ。それに、自分の身の回りのことが自分でできて、好きなものも食べられて、足で歩いてどこへでも行けるくらいには……。

 これから一生手も足も使えず、服も着れず、人間でさえもないなんて、……それは、はたしてどんな――絶望なのだろうか。


「ここは、施設じゃないよ。南美川さん。……施設では、笑うってことについては、どうやって教えられたの?」

「……笑うな、って言われた。ううん。自分の意思で笑うな、って……。調教師が笑えって言ったら、こう……ベロを出して、満面の笑みをしなくちゃいけないの……でも、でも、無理だったわ。そんなの。わたしには……そんな器用なことは、できなかった。そのくせふとしたときにくすっと笑っちゃうから……ずいぶん、お仕置きを受けたわ」


 南美川さんは、くすっ、と自嘲めいて笑った。


「……あー。たしかにあなた、高校のときにもいちばんゲラゲラ笑っていたよねえ……ほら、僕のことを教室でひざまずかせるときにもさ――」

「だからそれはごめんって言ってるじゃない!」


 南美川さんのそれはほとんど金切り声だった。


「……悪かっ、た、って。思った。わたしあんたのこと、あのときは、……ごめん、人間じゃないと思ってたんだけど」

「うんだいじょうぶ。そう思われてたこと、僕も知ってる。続けて?」

「……あのあとに、わたしの人生が、……ずれて、わたしは……こんな身体にされて。あんな施設に、入れられて。毎日、毎日、いじめられて……あなたのことを、考えたのよ。そういうとき。とても、つらいとき……」

「僕のことを――えっ、嘘だろう?」

「……ほんとうよ。だって、わたしの知るかぎりで、いちばん惨めだった人間って……来栖春。あなただったわ……。どんなに、つらかったのかな、って。だって、わたしはあなたのこと、ひとじゃないと思ってたのよ。だから、なんでもできた。きっと高校時代のわたしは、あの調教師たちとおなじ目をしていたのよね……あいつらは、わたしのことを、……犬として見ていたの」

「仕方ないな。……そういうもの、だからな」

「わたしね。ごめんなさい。あの。……先に謝っとくけど」

「うん。いいよ?」

「あなたもいまごろヒューマン・アニマルになってると思ってた」

「まあ……当たらずも遠からず、かなあ。僕もねえ、あのあと心の傷やらなんやらで、ちょっとばかり壊れちゃってねえ……二年間。完全に二年間、引きこもりをしたんだ。とくになにもせずね、社会的価値が低くて社会的負債ばっか増やしてたよ」

「その状態が、二年? 危なかったじゃない、それだとそのうち『社会的弱者』になって……加工されちゃう……」

「うん、危なかった。だから二十歳のときに大学受験をして、無名だけどもちゃんとした大学に入って、学問なんてやらずに即戦力のプログラミングをとにかく机にかじりついて身につけた。そんでいまはどうにか社会人、ってわけ。……よかったよ。働いてて。あなたを30万円でポンと買えた。……まあそんなにおもしろい話じゃないよ。聞きたければこれからいくらでも話してあげるけど。脱引きこもりの美談、ってほどのもんじゃないし、……僕はいまでも悪夢を見るし、根性はあなたたちの奴隷だったときのままの奴隷根性だ。ただ、偶然……僕は人間をやれてるだけ。ほんとうに、運でしかないんだ」

「……そう。がんばったのね。わたしと違って……あなたは、ちゃんといまも、人間なのね」


 ぺたん、とその金色の犬耳がまた下がっていく。……なかなかわかりやすいバロメーターなのかもしれない――それだってあるいは、感情が隠せないように神経を通されているだけかもしれないけれども。


 僕はその頭にポンと手を乗せた。頭は犬耳がついた以外はおんなじなはずなのに……僕の手に対して、南美川さんの頭部は、やけに小さく感じた。

 そして語りかける。


「うん。どうにかこうにか、僕は人間だ。……あなただって、人間だよ」

「……気休めはやめて。わたしは、もう……ヒューマン・アニマルの人犬。犬なのよ」

「そうだね、姿かたちはすこし変わった」

「すこし?」

「僕からすれば、すこし、だ。……逆に、楽しみかもしれない」

「楽しみ、って――なにが!」


 僕は、言う。



「だって南美川さんいまもすごくかわいい」



 南美川さんは、戸惑う。


「……は? え?」

「僕のほうこそ、ごめん。ひどいこと言う。……いい?」

「……いいわよ、言ってよ」



「南美川さんは、犬になっても、すごく、かわいい……」



 僕はもういちど、――こんどは違った意味の熱をもってして、南美川さんを抱きしめた。

 こんな僕などキモいだろうに――南美川さんは、抵抗せずに僕に抱きしめられていてくれていた。

 その、小さな身体が、ほんとうにいまも、……愛おしかった。



 恋ではなかった。愛とも、すこし違うだろう。

 けれども――南美川幸奈という人間が、僕に与えた影響は、……卒業後だってはかり知れなかった。

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