受け入れる

 南美川さんが落ち着くまでに、一時間くらいかかった。


 僕はその間、南美川さんの小さな身体をすっぽりと包み込んで、抱きしめて。

 南美川さんがすすり泣きながら聞いてくる不毛な問いに、自分のできる限りで、誠実に対応した。

 僕の黒い部屋着は、彼女の顔からあふれ出る体液で、ぐっしょり濡れる。


 僕はこの一時間でいったい南美川さんと、何度、そしてどれだけの約束を交わしたのだろうか。


 殺さない。犯さない。いじめない。飢えさせない。寒くさせない。熱くさせない。溺れさせない。倒れさせない。殴らない。叩かない。蹴らない。捨てない。そして、ふりだしに戻るのだ、殺さない、犯さない、いじめない……。


 何度も、何度も何度も何度も。

 これ以上ないってほどに、約束し尽くして。


 ぐす、と南美川さんは僕の胸から頭を離し、ようやくその顔を見せてくれた。僕もほっとして、……昔懐かしの、校長先生風の冗談なんかを言ってみる。


「南美川さんが落ち着くまでに、一時間くらいかかりました」

「……なによ。面白くもないこと言うのね――あっ」


 ふっ、と笑顔が見れそうだったのに――その顔はすぐに恐怖に染まる。

 しゅん、とうつむいて、髪とお揃いの金色の犬耳も、ぺたりと垂れる。感情と連動して──犬耳にも、ちゃんと神経が通っているのだ。


「どうしたの?」

「……あの。ごめんなさい。わたしがそうやって笑っちゃ……いけないんだわ」

「どうして。僕は南美川さんが、まあ笑わないよりは、笑ってくれたほうがいいけど」


 信じられない、とでも言いたげな顔で、南美川さんは僕を見上げた。


「だってあなたは、わたしの飼い主だわ。あなたの言ったことに笑うなんて……生意気じゃない」

「……施設でも、そうやって教えられたの?」


 南美川さんはこくりと、恥ずかしそうにうなずいた。


 施設――ヒューマン・アニマルの加工施設のことだろう。身体だけではなく、心も人間からヒューマン・アニマルへと「加工」するために調教を施すので、調教施設とも呼ばれる。

 まだ断片的な話しか聞けていないけど。南美川さんはどうやら、一年を越える過酷な時間を、最初は愛玩目的の個体が集められる調教施設で過ごして。その後は、反抗的な個体のための超調教施設に数か月。その後は労働用の個体の施設に移されたけれど、やっぱり上手くいかず。

 もう明日にも畜肉処分かというときに、急にあのペットショップに移されたらしい。……あの店長の話とも、合致する。


 それは、……あんなにも苛烈ないじめを受けていた僕でさえも想像のつかない、つらさであったに、違いない。


 僕は、すくなくとも人間だった。人権が、あった。高校時代がああまで惨めでも、いまは、自分の意思で社会人をやれているくらいには人間だ。それに、自分の身の回りのことが自分でできて、好きなものも食べられて、足で歩いてどこへでも行けるくらいには。

 これから一生手も足も使えず、服も着れず、もはや人間ですらないなんて、……それは、はたしてどんな――絶望なのだろうか。


「ここは、施設じゃないよ。南美川さん。……施設では、笑うってことについては、どうやって教えられたの?」

「……笑うな、って言われた。ううん。自分の意思で笑うな、って……。調教師が笑えって言ったら、こう……ベロを出して、満面の笑みをしなくちゃいけないの……でも、でも、無理だったわ。そんなの、わたしには……。そのくせふとしたときにくすっと笑っちゃうから……ずいぶん、お仕置きを受けたわ」


 南美川さんは、くすっ、と自嘲めいて笑った。

 

「……あー。確かにあなた、高校のときにも一番ゲラゲラ笑っていたよねえ……ほら、僕のことを教室でひざまずかせるときにもさ――」

「──ごめんなさい、それは、悪かったって、思ってるのよ!」


 南美川さんの言葉はほとんど金切り声だった。


「……悪かっ、た、って。思った。わたしあんたのこと、あのときは、……ごめんなさい、人間じゃないと思ってたんだけど」

「大丈夫、そう思われてたこと、僕も知ってる。続けて?」

「……あの後に、わたしの人生が、……ずれて、わたしは……こんな身体にされて。あんな施設に、入れられて。毎日、毎日、いじめられて……あなたのことを、考えたのよ。とても、つらいとき……」

「僕のことを――えっ、嘘だろう?」


 南美川さんが──僕なんかのことを?

 

「……ほんとうよ。だって、わたしの知る限りで、いちばん惨めだった人間って……来栖春。あなただったわ……。どんなに、つらかったのかな、って。だって、わたしはあなたのこと、ひとじゃないと思ってたのよ。だから、なんでもできた。きっと高校時代のわたしは、あの調教師たちとおなじ目をしていたのよね……あいつらは、わたしのことを、人間じゃなくて、……犬として見ていたの」

「……そういうもの、だよね」


 仕方のない。この社会では。……仕方のない、ことだ。

 

「わたしね。ごめんなさい。あの。……先に謝っとくけど」

「なに? 何でも言ってくれていいよ、どうぞ」

「あなたも今頃ヒューマン・アニマルになってると思ってた」


 それは、当たらずも遠からず、だ。

 

「……そう思うのはわかるよ。実際僕も、高校を卒業してから、二年間。完全に二年間、引きこもりをしたんだ。特に何もしないで、社会的価値が低くて社会的負債ばっかり増やしてたよ」

「その状態が、二年? 危なかったじゃない、それだとそのうち『社会的弱者』になって……加工されちゃう……」

「うん、危なかった。だから二十歳のときに大学受験をして、無名だけどもちゃんとプログラミングを教えてくれる大学に入って、即戦力のプログラミングをとにかく机にかじりついて身につけた。それでいまはどうにか社会人をやってる、ってわけ」

「……そう。がんばったのね。わたしと違って……あなたは、ちゃんといまも、人間なのね」


 ……ちゃんと、人間なのかどうかは、わからないけれども。

 僕は、いまでも悪夢を見るし。いまでも、あなたたちの奴隷だったときのまま、奴隷根性が、存在の芯まで染みついている気がする。


 ぺたん、と金色の犬耳がまた下がっていく。

 なかなかわかりやすいバロメーターだ――それだってあるいは、感情が隠せないように神経を通されているだけかもしれないけれども。


 僕は南美川さんの頭にポンと手を乗せた。頭は、犬耳がついて人間の耳がなくなった以外は、人間のときのままのはずなのに……僕の手に対して、南美川さんの頭部は、やけに小さく感じた。


「うん。どうにかこうにか、僕は人間だ。……あなただって、人間だよ」

「……気休めはやめて。わたしは、もう……ヒューマン・アニマルの人犬。犬なのよ」

「そうだね、姿かたちはすこし変わった」

「すこし?」

「僕からすれば、すこし、だよ。……逆に、楽しみかもしれない」

「……楽しみ?」

「だって南美川さんいまもすごくかわいい」


 南美川さんは、戸惑ったように、瞳を見開いて僕を見上げた。

 ……その、瞳には。信じられないことだけれど。僕の顔が、映り込んでいる。


「……ひどいことを言ってるかもしれないけど。南美川さんは、犬になっても、すごく、かわいい……」


 僕はもういちど、――今度は違った意味の熱とともに、南美川さんを抱きしめた。

 こんな僕など気持ち悪くて仕方ないだろうに――南美川さんは、抵抗せずに僕に抱きしめられていてくれていた。

 その、小さな身体が、ほんとうにいまも、……愛おしかった。


 恋ではなかった。愛とも、すこし違うだろう。

 けれども――南美川幸奈という人間が、僕に与えた影響は、……高校卒業後だってはかり知れなかった。

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