こいねがう
南美川さんをちゃんと拭いてあげた後、僕は、とりあえず熱いシャワーを浴びた。
こんな状況ではあるけれど、明日も普通に仕事だし。
それに、冷たい水が身体に付着した感覚が消えなくて、気持ち悪い。
先程。南美川さんを、部屋に入れた後。
今日のところはケージもないし、さて、どこに南美川さんの鎖をつなごうか、と腰に手を当てて考えて。
下部が簡単な本棚にもなっているパソコンデスクの脚に、南美川さんの首輪を鎖でつないで。大人しくしていてね、と言い聞かせて。
こんな状況なのにシャワーを浴びるの、とでも言うかのような南美川さんの視線を、どうにかこうにか無視して。
逃げるかのように、僕は狭いバスルームに駆け込んだ。
熱いシャワーを、全身にかけていく。
僕はシャワーヘッドとタイルの壁の中間の、どこでもないところを、五分間ほど見つめていた。
冷たい水が肌に触れるのが苦手だ。だから、シャワーはとびきり、嫌でも、痛いほど熱くないと、ろくに浴びられない。
南美川さん。高校時代、あなたたちに僕はプールでも散々玩具にされたから。
あなたたちのいじめの影響は――僕の日常の、隅々にまで行き渡っている。
気づいてないだろうな。僕が真っ先に、あなたのことをタオルで拭いてあげたわけに。
僕はあなたたちに何度もプールに突き落とされて、もがいて、死にそうになって。もちろんタオルも何も残さずに、あなたたちが笑いさざめきながら去っていった後、すっかり暗くなってから、ほとんど病人のようにどうにか帰宅して。
そんなことを繰り返すうちに、僕はとても当たり前のことに気づいたのだ、帰宅して、自分の身体が濡れそぼっているというのは、とてもつめたいことなんだ、と。……ほんとうに、言葉にすれば、当たり前すぎることに。
ましてや……あなたはほんとうの犬のように震えて、水気を飛ばそうとした。
それは、いまもどうにかこうにかで人間やってる僕からすれば、涙ぐましいほどの行為で。
『……仕方ない、でしょ。こうしないと身体が冷えて寒いのよ……』
震えてしまう。心が。芯から、ぞわりと。……あの南美川幸奈に、そんなことを言われては。
心の震えを、誤魔化すかのように。
熱すぎるシャワーのなかで、僕は、身体を小さく震わせた。
シャワーから上がり、丹念に身体を拭く。一瞬で雫を落とせる最新のマシンに憧れがないわけではないけれど、そんな高級品を買うお金は、僕にはない。
部屋着兼パジャマを着る。どちらも黒色の、ぱっと見普段の私服とそんなに変わらない、長袖と長ズボン。
風呂場から、ひんやりする廊下に出て、部屋へ。
南美川さんはパソコンデスクの下の小さな空きスペースに、小さくまるまっていた。
……逃げていない。逃げようともしていない。それは、今の彼女の状況を考えれば、当たり前のことではあるのだけれど。
パソコンデスクに鎖をつないだ、と言っても、とても簡易的だ。脚を持ち上げて、鎖の端をくぐらせて、元に戻したという、それだけ。
人間であれば――指を動かせる手、立てる両足があるなら、簡単に外してしまえるだろう。
けれども、人犬になった南美川さんとっては、それはほとんど不可能なこと。犬と同じ前足では、鎖を外すどころか物もまともに掴めないだろう。犬と同じ後足では、立ち上がろうとしても身体を支え切れず、ふらふらしてすぐに四つん這いに戻ってしまうだろう。
それに……そもそも、南美川さんは逃げられるわけがない。ありえないけれど、仮に鎖を外せたところで、今の南美川さんがどこに行ける? せいぜいが八畳一間の僕の部屋のなかだけだ。南美川さんはもう自力では、部屋と廊下を仕切る扉さえ開けられないだろう。
仮にその先、玄関の扉を開けて外へ出られたとして、どうする? 何ができる?
――何もできない。誰かに見つかったら、すぐに交番に連れていかれる。そして「所有者」である僕のところに戻される。所有者が見つからなかったら――畜肉処分になるだけのこと。
でも、よく考えたら……畜肉処分の方が、南美川さんにとっては都合が良いのかもしれない。
南美川さんは、死にたがっているから。
だから、……もう二度と絶対に、逃げ出されないよう気をつけないと。
死なせるわけが、ないじゃないか。僕が、あなたのことを。
後ろ手で、部屋と廊下を仕切る扉を閉める。
ぱたんと扉が閉まると、それだけで沈黙が膨張する。
さて、彼女は何を言ってくるかな。パソコンデスクに鎖でつないでシャワーを浴びてきた僕に、文句を言うだろうか。あるいは死にたいとか言って泣くのだろうか。
なんだっていい。どうせ、あなたは不安定だ。さすがにそのくらいは予測している。
だけど。
ふるっ、と背中を震わせて、振り向いて、
僕を見上げてきた南美川さんは、
予想外の顔をしていた。
泣きそう――まあ、それは予想済み。
予想外だったのは、……僕に、すがってくるかのような表情。
「……遅かったじゃない。……わたしは、ここに残されて、もう、もう、やっぱりだめなんだって、思った」
「……待って。南美川さん。何が?」
彼女は、唐突に語り出す。
少しでも彼女が身体を動かすたび、ステンレス製の鎖がじゃらりと音を立てて揺れる。
「あんたは……わたしをここに残して、一回助けたようなふりをして、ずっとほっといて、餓死させるのかな、って……わたし、わたしなんでも食べる、なんでも食べられるようになったのよ、ねえ、すごいでしょ、わたし、ほ、ほんとになんでも食べるのよ……がんばったから、なんでも食べられるの、でもわたしもここのホコリとか木の床とかは……食べられない……ねえ、ここにある本って、食べたらすこしはエサになる? たくさん、あるから、困らない? わたしの生きる、栄養に、なる……?」
僕はその場に立ったまま呆然としていた。
南美川さんは、ぼろぼろ、ぼろぼろ、泣いていた。
「ね、ねえ、わたしになにをするの……? わ、わたしやっぱり、考えたら、こわくて、こわくて、こわいの、こわい、……だって、あんた、わたしのこと、絶対、恨んでる、憎んでる、……いじめた相手をゆるせるひとなんていないわ、絶対、わたしのことざまあみろって思ってる、……やっぱり犯して殺すのよね」
先程わずかに覗かせた、愉悦、明るさ、……高校時代のような余裕は、どこにもなかった。
「あ、あの、さっきは、ごめんなさい、わたしあなたのこと、童貞って言ってからかった、また、調子に乗った……優しくされるとすぐに調子に乗っちゃうの、わ、わたしね、全然学習しないの、学習できないの、わたし、わたしはね、……だめなの、だめ、なんです、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ほんとうにごめんなさい、わたし、いいこにする、いいこにしてるから、……あなたのいうことなんでも聞きます、わたし、わたしいいこになる、いい犬になる、従順な犬になります、ずっとずっといいこでいる、……だから、」
……南美川さん。
「わたしを、もう、いじめないで」
僕は、南美川さんに歩み寄った。
ひざまずいて、全身で――その小さすぎる人犬のからだを、抱いた。
「……いじめない。それに、言ったよ。犯さないし、殺さないって」
「……ほんと? ほんとに、わたしのこと、いじめない?」
「いじめないよ」
「……わたしのこと、ほんとに、飼ってくれるの……?」
ああ――南美川さん。
気位の高かったあなたが、いま、
……まるで飼われることが世界で最上の希望でもあるかのように、僕に――こいねがう。
「……飼うよ。あなたはもう、僕のペットだ。……逃げないでね。僕のもとから、絶対。それだけ、僕と約束してほしいんだ。……わかった?」
南美川さんは、もう言葉で返事をしてくれなかった。
ひたすら、子どものように泣きじゃくっていた。
僕は、ずっと、彼女を抱きしめていた。仄暗い決心を、胸にともして。
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