第一章 高校の同級生を、自宅に迎え入れました。彼女はいろいろと、傷ついているようです。

包み込む

 南美川さんを、先に部屋に入れる。


 傘を畳み、ドアを閉め、照明のスイッチを押した。右手にはリードを持っているから、左手で。

 橙がかった部屋の明かりが灯り、ごちゃごちゃと散らかった玄関を――そして南美川さんのいまの全貌を、包み隠さず照らし出す。


 僕の部屋はお世辞にもきれいとは言えない。彼女がいない男のひとり暮らしの典型のようなものだ。僕にとっては世界で唯一安心できる自分だけの自分のためだけの巣だけど、他のひとから見たら、うんざりするような場所なのかもしれない。

 僕の部屋にはそれなりの、悲哀というものがあるのだろう。

 だけども、もちろん僕の部屋なんかよりずっと、南美川さんの背中は可哀想だった。悲惨だった。


 南美川さんの、その背中。

 単身者用のアパートの玄関の、狭いたたきの部分がまだまだ余るくらいに、本当にコンパクト。

ペットショップで出会ったときと同じで、もちろん衣服は着ていない。


 剥き出しの素肌は、白く、つるっとしている。色白なのは、高校時代から変わっていないようだ。

 ただ――その背中には鞭か何かで打たれた跡が幾筋も幾筋も残っていた。しかも線のかたちに色素沈着するほどに、その傷はおそらく習慣的に繰り返されたものだ。

 まるで、巨大な怪獣がひと撫でしたかのようで、――けれど南美川さんを調教したのは人間であるはずなんだから、つまりはやはり、何度も何度も、やられたのだろう。


 南美川さんは四つん這いのまま、金髪の髪を垂らしてうつむいたまま、ふるふるっ、と全身を震わせた。

 そうすると、水がわずかに身体から飛び散っていく。ふるふる、ふるふる、と南美川さんはなんども繰り返して震える。


「犬みたいなことするんだね」

「……仕方ない、でしょ。こうしないと身体が冷えて寒いのよ……」


 なるほど。それは、その通りだ。

 だけど、全身が毛皮で覆われているイヌならともかく、肌の多くが人間のときのままつるりとしている人犬では、身体を震わせたところで、飛ばせる水はたかが知れている。

 それでも――犬を真似して水を飛ばさなければいけなかったほど、つまり、南美川さんはそういう生活を送ってきたということだ。


 玄関のすぐそばにある、洗濯物の溜まった洗濯機。僕は洗濯機の上に手を伸ばして、バスタオルを取り、そのまましゃがみ込んだ。


 鷲掴むように。南美川さんの小さくなってしまった全身に、タオルを被せた。

 きゃっ、と彼女は声を上げる。

 

「そんなに怖がらないでよ。拭いてあげるんだから、いま」

「……い、いい。やめて。さわらないで。やめて……」

「そんなこと言ったって犬なんだから自分でできないでしょうアンタ」


 びくん、と南美川さんの身体が跳ねるように揺れた。


 たっぷり水を含んだ豊かな金髪を、丁寧に拭いていく。高校時代からのトレードマークの赤いリボンをほどき、洗濯機に放り込む。


「リボンは誰が結んでくれてたの? 昔から変わらない結び方だよね」


 南美川さんは、口を堅く引き結んで答えてくれなかったけれど。

 人間の時代の南美川さんの写真か何かを見て、これは可愛い売れるってことで、調教師だかペットショップだかの人間がリボンを結び続けたのかな。


 そして背中。

 尻尾の生えている臀部は……まあ、それとなく、さらっとタオルを滑らせておいた。


「顔、上げて」

「……や、やだ」


 僕はその顎に手をやり、ちょっとばかり力を込めて、持ち上げた。

 う、と南美川さんは声を上げる。


 ……泣いていた。南美川さんが、僕の記憶よりもずっと大人で、ずっとボロボロの顔で、ぐずぐずに、泣いていた。

 もうどうしようもなさそうな泣き顔で、僕を見ている。憎らしそうに。悔しそうに。そしてわずかに、恥ずかしさを滲ませて。


「そんな顔しないでよ。べつに、危害は加えない」


 顔も、タオルでわしゃわしゃと拭く。……涙と鼻水も拭き取って、きれいに。

 南美川さんは視線を下に落として涙を流しながらも、大人しく拭かれてくれた。


 さて。

 ……次なんだけど。


 僕は息をいて、立ち上がる。


「ごろん、ってできる?」


 南美川さんは唇をまっすぐ引き結び、少々の間の後、横向きに寝転がった。

 挑戦するような顔で、僕を見上げてくる。


「……これで、いい?」

「違うよ。『ごろん』って、犬に対する命令でしょ。『こうさん』のことだよ。横向きじゃない。……調教施設では教わらなかったの?」

「……仰向けになれっていうの……?」

「うん。……あのさ、なんか南美川さん勘違いしてるみたいだから、言っとくけど」


 僕は二本の脚で立っている。人間として、当たり前に。四つん這いでしかいられない南美川さんを、圧倒的に見下ろしている。

 南美川さんの身体は拭いたけれど、自分自身の身体はまだろくに拭いていない。社会的に見て、まだまだ男性にしては長すぎると判断される髪から大粒の雫が垂れて床に落ちる。


「僕はあなたを金で買った。三十万円で購入した。いまの僕は、あなたの飼い主なんだ。……悪いようにはしないよ。だけど、僕はね、南美川さん。あなたを恨んでるんだよ。……あなたは僕の人生をめちゃくちゃにしたんだ」


 南美川さんは恐怖に染まった顔で、僕を見上げていたけれど。

 声を震わせながら、叫ぶように――吠えるように、言う。


「……なによ、なによ。やっぱり犯して殺すのね?」

「犯さないし、殺さない。それは約束するよ」


 僕は、もう一度息を吐いた。


「……それで、あなたが濡れたままだと部屋も濡れるから、拭いてあげたいんだけど。そこに仰向けにごろん、ってなれる? 『こうさん』、できる?」


 南美川さんは、上目遣いで僕を睨んだ。殺意のこもった瞳で。

 ……犯さないし、殺さない、約束するって言ったのに。どうもなにひとつ、信用してもらえてないみたいだ。


 だけれど南美川さんは、もそり、と身体を動かして、犬の「伏せ」の姿勢になると。

 意を決したように、仰向けに寝転んだ。


 初めて見る、異性の、ありのままの素肌。

 ……人犬を、異性、と呼ぶべきでないのはわかっているんだけれど。

 四肢は髪と似た金色の、ふさふさの犬のそれに作り替えられているけれど。金色の尻尾も、臀部から伸びているけれど。

 他は、人間のときのままで。


 その身体には、正直なところ。

 かえって――身体を加工するとき、本物のイヌのように全身を毛で覆ってあげた方がまだ救われるのではないかと思わせるほどの、グロテスクさと、情けなさと、悲惨さがあって。


 だけれども。僕はどうも、目の前で仰向けになっているこの身体を「異性」として認識してしまっているようだ。

 初めて見る人犬だったら、こんなこと、ありえないだろうに。


 南美川さんだから、こんな風に――社会的には正しくない感覚を、覚えてしまう。


 犬ならば、飼い主にお腹を見せて仰向けになることなんて、本当に、なんてことない、むしろ信頼を表す行為なんだろうけれど。

 ……もとは人間だった人犬が、人間の意識を保ったままこれをやっている。そう考えると、いかに屈辱的な格好をしているのかがわかる。

 全身がぷるぷる震えているのは、……今度は、恐怖とは別の理由かもしれない。


 だけれど。南美川さんは、上手に「こうさん」のポーズを取り続けている。

 慣れているようだ。

 ……あんなに高飛車で、プライドの高かった南美川さんが、こんなポーズを。平然と――とまでは言わないけれど、命じられるがままに。おおかた、厳しくしつけられたのだろう。


「南美川さんって、本当に、犬になったんだね」


 優しい声をつくって 語りかけながら、タオルでその肌を拭き始めた。

 僕なりに、意を決して。


「どうやってそこまでちゃんと犬になったのか、これからゆっくり、教えてね」


 視線を合わせず横を向いた南美川さんの顔はもはや真っ赤で、頬をつたう涙が、筋となって廊下に流れていく。


 横にそむけた南美川さんの顔はもはや真っ赤で、涙も廊下に筋となって流れていく。


 ごしごし、ごしごしと手を動かす。

 なるべくフラットに、淡々と、拭いていこうと試みるけれど。

 内心は、とんでもないことになっていた。


 だって、そこは。本来ならば、……女性が、ひとにはけっして、簡単には見せないはずの──。


「……そこ、む、胸……」

「存じ上げておりますけど 」

「も、もうちょっと、気を遣って拭いて、よ……こっちだって、こんな身体になっても、恥ずかしいって気持ちは、あるの……。その、もう、自分で隠すことも……できないし。隠せないって思うと……」

「うん。僕も恥ずかしいよ。まさかこんな形で、女性の肌に触れるとは思わなかった」

「……まさか、いまも童貞なの……?」

「さらっと言わないでもらえますか?」

「童貞なの?」

「そんなに気になる? 童貞です」


 南美川さんは、ちらりと僕の顔をうかがい見た。

 苦しみに喘ぐようなぐちゃぐちゃの泣き顔のなかに、ほんのわずかな、愉悦の色が灯った。


「……ふうん。童貞で、……変態なのね」


 絞り出すように。思い切って言ってやった、という感じではあったけれど。

 でも。それは、僕のよく知っている南美川さんだった。


 僕は返事の代わりに、力を込めて勢いよく、タオルを動かした。そして、その白い肌を余すところなく拭いてあげた。あんなところも、こんなところも。


 南美川さんは、ひゃうん、という声を何度も上げる。タオルが、触れるたび。くすぐったそうに。……敏感な声を。


 そんな声を何度も、目の前で上げられて。

 南美川さんが馬鹿にするように、童貞である僕はどうしようかと思って。

 ……できることと言えば、平静を装って南美川さんを拭き終えることくらいだという結論に達して、ひたすらに、手を動かし続けた。

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