再開
彼女を、お買い上げた。
良い店だった。店員さんたちは店長はじめ感じがいいし。飼育キットも割り引いて、送料無料で送ってくれるっていうし。人犬用のケージなんて結構大きくて、どう持ち帰ろうか悩んでいたから、助かった。
僕は、あまり他人の優しさにふれてこなかったから。些細なビジネス的気遣いさえも、ああ人間として扱ってもらってるなあとか、いちいち感激してしまうのだ。
とりあえず持ち帰るのは、ヒューマン・アニマル用のペットフード、エサ入れ、トイレのシーツ。
あと、赤い首輪と、同じ色のリードも買った。もともと首輪とリードは飼育キットについていたから買わなくても問題なかったんだけど、まあ、これは僕が選んだ僕からのプレゼントってことで。
彼女に首輪をつけるとき、彼女は、……目に涙をいっぱい溜めて、僕の顔なんてろくに見てくれなかった。
赤色。似合うと、思うんだけどなあ。
家までは、リードで曳いて連れて帰ってくださいとのことだった。すくなくとも四足歩行は問題なくできる、と。
ただ歩行訓練のときに時折ものすごく衝動的になると調教施設から報告を受けているから、気をつけてください、とも言われた。
うん。やはり親切で、良い店だった。
あとで口コミをネットに書いてあげようかなと思いながら、僕は右手に大荷物を、左手にリードを手にして、店を後にした。
「行くよ」
優しく語りかけてあげたのに、ぞわぞわと背中一面にも鳥肌が立っている彼女には、聞こえなかったらしい。
家までは、ここから歩いて帰れる距離。
外は、雨が、降っていた。土砂降り。視界が悪くなるほどの雨だった。夜だから、なおさらだった。
秋の終わりの雨は冷たい。
なるべく彼女も濡れないようにと傘の位置を調整するけれども、なにせ両手が塞がっているのでなかなかそうもいかない。
煙る電灯。誰とも、すれ違わない。静かな住宅街。
無言で、歩いた。
お互い、無言で、この雨のなかでふたりきりで。
彼女のリードを曳いているって、……とても、変な気分だ。
卵の黄身のような光。車、トラックだ。僕はとっさに電柱柱のほうに寄り、彼女のリードもクイと引く。
だが、彼女は――唐突に駆けだした。リードが、すり抜ける。しまった、掴みが甘かったのかと思ったときにはもう遅い。彼女は駆けている。四つ足で、黄色い光に照らされて、――殺して、もう殺して、と全身でアピールしている。
もちろん、そうはさせない。
傘も荷物も鞄も何もかもを投げ捨てて、僕は彼女を抱きかかえて道をスライディングした。
足が、背中が、冷たい水たまりに浸かる。大雨のせいでできていた川のような水たまりは、僕の身体を滑りやすくしてくれた。
トラックはクラクションを鳴らすこともブレーキを踏むこともなく、普通にそのまま走っていく。未然の未然に、僕は防げたということだろう。……でも。
ザアザアと濁流のように雨が降っている。
「……なんで、死のうとするんだよ……」
僕は彼女の両肩に両手を乗せ、うなだれて、強く、強く自分の手に力を込めた。
当たり前だが、彼女はもう四肢を持たない。それは犬の前足と後ろ足に作り替えられている。それだけのことで、人間がこんなにもコンパクトになってしまうだなんて、思わなかった、僕は。
「せっかく、再会できたのに。もう会えないかと思っていたのに。僕にとっての奇跡だったのに」
ああ、雨が降っていてよかった。僕の熱い涙なんて、あっというまに冷え切って、無限とも思えるこの水に溶けてしまう。
「……
彼女は目を見開いた。まるく。高校時代と、同じように。
「……そんな。まさか。もしかして……シュン?」
僕は情けなくぼろぼろと泣きながら、うなずいた。
シュン。
そして、あなたは――南美川
幸せをあらわすその漢字をその名に、もつ。
シュンという呼び名は、べつに親しみを込めてではない。底辺に対してそれこそ犬のように呼び掛けるためのものでしかない。
だって僕はずっとあなたのことを南美川さんと呼んでいた。呼ばされていた。
幸奈、というその名前は僕のなかでなによりも柔らかいところの、ひとつの、鍵だったんだ。
南美川さんは、ぺたりとその場に座り込んだ。
僕も泣いているし、
もうどうしようもない――秋の夜の雨の日のことだったんだ、
(プロローグ、おわり。第一章へ、つづく)
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