同じだよ



 峰岸──その、名前を出した途端。

 ざわり、と。

 その場がすべて、ざわついた。

 局員たちは顔を見合わせ、声を潜めてささやき合う。

 不穏な空気を──既に感じた。


 先ほど、孫を見るような目で優しく杏奈に語りかけた男性が、再び口を開く。

 いまだ優しく──しかし、とろけるほどの優しさではなく、一応の思いやりといったレベルに下がった優しさを見せて。


「……杏奈さんがおっしゃるのは……峰岸狩理のほうですね」

「……そうです、けど」

「知らなければ無理もありませんが。峰岸という名前には、我々倫理監査局は敏感なのですよ。……犯罪者の名前です。犯罪者など。いてはなりません。社会の全員が、つらい思いをしています。みな辛い記憶を思い返しているのです……」


 ちらりと、中年男性は上目遣いで杏奈を見た。


「ご容赦いただけますね? ──そして峰岸狩理は、その凶悪犯罪者の息子。犯罪者の血縁者は劣等になりやすいというデータも揃っています……峰岸狩理は……本来、敬称をつけるべき人間ではないのですよ。……社会は慈悲の意によりそれを再教育しましたが、やはり、そのような猶予措置は倫理的な観点から間違っていると。あなたのお父様は、その不正を是正しようとしています。大変に素晴らしいことなのですよ。公園事件のような悲惨な事件さえ、倫理的契機に変える……いやはや、本当に、素晴らしい」

「……それ、って……なに……峰岸さんのこと?」

「ですから杏奈さん。さん、と。敬称をつけるべきではないですよ」

「……どうして……いつもそうやって……話を逸らして……わからない話ばっかり……」


 ──ちりり、と。

 身体が。燃えるようだった。


 家族と同じ制服を着た、このひとは。

 家族とは違う人間だと、わかっていたけれど。


 ……話し方が。

 なにひとつ、わからない話をするところが。

 家族に似ていて。


 これまで家族にされたたくさんのたくさんのわからない話が、ぶわっとよみがえってきて──。


「倫理監査局のひとって、みんなそうなんですか? 難しい言葉を使って。聞きたいことには……答えてくれなくて……」

「……倫理学であれば。確かに、専門的素養も要求されます。しかしそれは、我々倫理監査局員のような倫理学の場合です。倫理は万人が身に着けるべきものです。身に着けられるものです。……身に着けられなかった者は人間とは呼びません。人間未満です。峰岸親子のようにね」


 たっぷりと、間をとって。

 黒い壁を背景に。

 にこりと──優しく、壁の色と同じ倫理監査局の制服を着た彼は微笑む。


「倫理があるから、ひとは人間でいられるんですよ」

「……ちがうよ……そんなの……」


 杏奈は、考えをうまく言葉でまとめられない。

 だから。うまく。頭の良い、このひとたちに。──説明できる自信はなかったけれど。


 だけど。ちがう。……ちがう、と。

 強く、反響するように、思った。


 ──人間でした。


 雨のなか、そう言って去っていった峰岸さんの。

 わからない、なにがあったのか、わからないけれど。

 きっと、消えてしまう。あの儚さ。どうしたの、と声をかけたくて。──でも声をかけたら、壊れてしまいそうで。


 煙って消えていく背中。繁華街の、果てへ果てへ。


 ──あのとき、なぜあのまま、見送ってしまったのだろう。

 仕事があるからって。……そんなことまでしたら、引かれるかな、って。


 呼び止めなくては、ならなかったんだ。きっと。仕事を放り出してまで、最悪に、エモーショナリィであったとしても。

 呼び止められなかった。追いかけられなかった。そのことをいま。……こんなに、後悔するなんて。


「ちがうよ……峰岸さんは人間で……私だって、人間で、同じだよ──」


 どこまでも、優しかった倫理監査局の彼は。

 どこまでも優しい瞳のまま、ゆっくりと──父と、母と、兄に、視線を動かした。


「大変に失礼なお言葉ですが……杏奈さんには少々倫理が足りないのではないですか?」


 兄ががたりと立ち上がり、深々と、深々と、何度も何度も頭を下げた。


「おっしゃる通りです! 本当に、本当に、申し訳ありません!」


 母も父も、兄と同じようにして、繰り返す、繰り返す、……なんのための謝罪なのかさっぱりわからない、謝罪を、壊れたオールディロボットのように、繰り返す。


「……杏奈さんは公園事件の重要な参考人でもいらっしゃいますし」


 優しいまま。

 ずっと、優しいまま、彼は言う。


「一度……取り調べを始めてみたら、いかがですかね。──倫理的配慮を含め、倫理的再教育プログラムも含めて」


 そうですよねと、言わんばかりに──ここにいるひとびとは、頷き合った。


 ……倫理的再教育プログラムって。

 なに。なに。なに。


 尋ねてももう、杏奈に答えてくれるひとはいなくて。

 優しかった中年男性の倫理監査局員は、優しいままに、杏奈を無視して。

 デジタルブラックボードに。すらすらと、杏奈には信じられないほどの速度で文字が書かれていって。

 賛成、の決定がなされて──父は倫理監査局における公園事件臨時対策本部とやらの、本部長とやらに、任命されたようだった。


 兄が立ち上がり、一同に礼をする。しずしずと。


「取梨杏奈に、倫理的再教育プログラムを施します。倫理的配慮をもって」

「お兄ちゃん! どういうことなの──」

「では」


 兄は膝に手を当てた。

 と思ったら、てらてらと鈍く光る金属のツールが出てきた。

 杏奈は初めて見るものだった──えっ、と声を出すより前に、兄はそれを慣れた手つきで杏奈の額に押し付け、スイッチを押す。

 光が走って。

 世界が、弾けた。





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