わからなくて良いよ



 ブラックに塗りつぶされた、壁、天井、床。

 倫理監査局本部の、大取調室で。


 どくん、どくん、と全身に血が流れる。

 恐ろしいほどに。嘘のように。

 全身の血が激流するかのようで。


「杏奈。私語は慎みなさい」


 父は、ひっそりと抑えた声で言う。眉根を寄せて。

 それはいかにも、公の場でしっかりと娘を叱る──だけどもどうしようもなく滲む心配を隠せない、いわば理想の父親、そのものの振る舞いだった。


 逆にぞっとする──怒鳴られるより、恐ろしい。

 普段はあんなに杏奈に興味のない父が。ここまでも。……自分に、興味のあるふりができるのが、恐ろしくて恐ろしくて──悲しい。


 母も、兄も、神妙に頷く。

 それは本当に、社会に迷惑をかけてしまったけれど可愛い可愛い愛する家族をかばうすがた、そのもので──。


 杏奈は思わず後ずさりたくなる。

 でもそれより前に、倫理監査局のひとたちが口を開く。父と母と兄に似た種類の、エモーショナリィな、共感を見せて。


「お言葉ですが、少し、彼女のお話を伺ってもよろしいのでは」

「倫理的には、傾聴の姿勢が要求されるかと」

「彼女はあくまで、過失により、結果的に社会に損失を与えただけ……」


 優しく、どこまでも優しく。

 倫理監査局員のひとり、中年男性が、杏奈を見る。


「彼女の倫理観如何によっては、抒情酌量の余地がいくらでもありますよ。これで劣等の可能性があるならまだしもね──取梨杏奈さんは、これまでも充分な社会評価ポイントを得てきたわけですし」


 彼の目が実は鋭いなんてこともない。まるで孫を見るような、とろけるような笑顔。

 だからこそ──怖い、怖い、怖くて。動悸が、もっと激しくなる。


 ……その社会評価ポイントは。

 すべて、家族から与えられてきたものだ。


 家族から与えられなくなれば、お終いだ。

 誰が自分を評価してくれるのか。

 これまで通り。職場の店長さんと他の店員さんたちは、少しは評価してくれるだろう。友達は全力で、杏奈を評価してくれるだろう。優しいひとたち。杏奈の、大好きなひとたち。


 でも。とても。……悔しいけれど。

 彼ら彼女らがたとえ満点評価を杏奈につけてくれたところで──家族が軽蔑の視線とともに上からチャリンと落としてくる社会評価ポイントには、どうしたって、かなわない。

 倫理監査局員は、それだけ、優秀だから。


 賢く生きるのであれば、家族の意に沿うしかない。

 これまでも。これからも。


 しかし、こういう場面での、この社会での適切な振る舞い方を──杏奈は、知らなかった。


「……わ、私は、何も知らないの」

「杏奈?」


 父が、あくまでも穏やかな声で聴き返す。杏奈、愛する娘よ、言葉がそう続いたっておかしくなさそうな声色。


「お父さんの言ってることも……お母さんの言ってることも。お兄ちゃんの言ってることもお姉ちゃんの言ってることも、わからない、全部全部わからないよ」


 むかしから。わからない。ずっと。ずっと。


 どうして、あの子と遊んじゃいけないの?

 社会評価ポイントが低いから? そうなんだ。わかった!


 どうして、あの男の子を好きになっちゃいけないの?

 親が人権制限を受けてるから……ふうん……そうなんだ。


 どうして、パティシエを目指しちゃいけないの?

 ……オリジナリティを生み出せるパティシエは一部だから? だったら、私、それを目指すよ。

 ……無理だって、どうして?……そっか。私の……成績が、良くないから……。

 統計上、もうわかってる……そうなんだ。このくらいの能力がなければ、創造性には結びつかないって……そっか……じゃあ私……オリジナリティを生み出せるパティシエには、なれないんだね。

 じゃあ……せめて……ケーキにかかわれるお仕事を……。


 どうして、ケーキショップの店員になってはいけないの?

 それさえ──駄目なの?

 ……社会評価ポイントが低いお仕事だから?


 ──どうして。

 ひとより、優秀でなければならないの?


 優秀で、頭の良いはずの家族からは。

 杏奈が心の底からわかるような答えは、ひとつも貰えなくて。


 そして、杏奈はいつしか、家族に何も尋ねなくなっていたけれど。


「何にも……わかんないよっ……」


 わからないまま。このままで。……いいのかな。


「わかるように説明してよ! 何が、起こってるの。あのお客さんは、峰岸狩理って名前なの? どうしてあのひとが公園事件の容疑者になってるの? ──人間未満体験プログラムって、何?」


 だって、杏奈にはわからない。

 なぜあのお客さんが、公園事件の犯人だってことになっているのか。


 雨のなか。

 あんなに、いまにも消えそうだったひとが、どうして、そんなこと、できるのか──杏奈にはわからない。なにひとつ、わからないし、……わからなくて良いよ、と。

 自分でも、わけがわからないままに強く願った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る