大取調室

「……あ。お兄ちゃん」

「杏奈。久しぶりだな」


 徳の道とは対照的に、目に痛いほどのピュアな白で統一された倫理監査局本部の内部。

 大取調室だいとりしらべしつ、書かれた部屋の前で。

 兄は扉を開け、爽やかな笑顔で杏奈を出迎えた。──昔からずっと変わらず、「杏奈はバカだな」と言うときの顔だ。


「元気だったか? なんだっけ。ケーキだっけ。売れてる?」

「……えっと、売り上げは店長が管理してるから、わからない」

「そういうとこだぞ杏奈? 商売なんてな。人の役に立ってなんぼなんだから。売り上げがわからないなんてな。やめてくれよ。お兄ちゃん恥ずかしいぞ?」


 そのとき。

 部屋のなか、テーブルの最も上座に座っている人──父が、兄と杏奈を一瞥する。


「……私語は慎め」

「申し訳ありません」


 兄はちょっと緊張気味に返した。

 父と兄は、家では家族として普通にやり取りしているけれど、プライベートとオフィシャルの区別はきっちりつけているらしい。そして、それは杏奈の他の家族も同様だった。


 母は素知らぬ顔で、部屋の中に入る。

 部屋では、楕円形の大きなテーブルを囲んで、倫理監査局の真っ黒な制服を着た人たちが二十人ほど座っていて──すべての人が立ち上がり、母に対して敬礼した。

 お疲れ様、と母は淡泊に言うと、当たり前のように父の隣に着席した。

 兄は、ずらりと座る人の真ん中、空いていた席に座る。


 杏奈は、ぼんやりと部屋のなかに入って、だけどもだれも杏奈に声をかけなくて、ひとり突っ立っている。

 最も下座に座る局員が立ち上がり、無言で扉を閉めた。

 沈黙が響く。


 いま、この場では、母と父がいちばん偉い。

 同じ黒い制服を着た皆が、おごそかに──母と父の言葉を待っている。そんな気配がする。


「この度は」


 母は、鮮やかに紅い口紅を塗った唇を動かす。


「うちの愚かな次女が、社会にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」


 そして母は、立ち上がり、頭を下げた。

 父も、兄も同じことをする。


「……え?」


 杏奈の戸惑いの声は、しかし、局員の人たちが次々発する言葉に搔き消される。

 心配そうな表情。深刻そうな表情。わかりますよ、と言わんばかりの頷きとともに。


「いえいえ、そのように謝られないでください」

「悪いのは犯罪を犯すような劣等者ですから」

「そうですよ。許せないですよね……社会の秩序を乱すなんて。倫理を馬鹿にしています!」


 先ほどの沈黙が、嘘だったかのような──エモーショナルで、優しい、慰めと励ましのコーラス。


 父と兄は、恐悦至極、とでも言わんばかりに何度も何度も頭を下げる。

 母は、制服の胸ポケットからハンカチを取り出して、目元をぬぐった──杏奈は驚く。あのお母さんが。杏奈がどんな目に遭っても、感動的な映画を見ても、知っているひとが亡くなってさえも、泣くことなんかない母が。

 こんなに簡単に泣くなんてこと、ある──?


「いえ、しかし……次女は、凶悪な公園事件の有力な容疑者と接触しながらも、愚かゆえに……容疑者を、みすみす逃してしまったのです……。今もなお公園事件で苦しむ被害者の方々に、いったいどうお詫びすればよいのか」


 涙声で。母は語る。胸が締め付けられるような声──とても、杏奈の知る母らしく、ない声で。

 兄は母の涙声に合わせるかのように、唇を噛み、頭を更に深々と下げる。


 ……この感じ。

 覚えがある。もっと、身近なところで──何だろう?


「私どもは社会のために反省しました」


 父が。

 神妙な顔で、シリアスな響きの声で、言う。


 そんな、取梨常務がそこまでおっしゃらなくても、と。

 感極まった、共感と。涙声とが。部屋にひろがっていく。……伝染するかのように。


「この件に対する責任を、必ずや果たさねばなりません。容疑者──峰岸狩理を、至急確保します。そのために。倫理を守る素晴らしき皆様に、提案と、お願いがあります」


 やはり神妙な顔で、一同は頷いて──やはり、こんなにも、ここまでも、伝染する、……父と母のエモーショナルな振る舞いが、こんなにも。


 そして、杏奈は気がついた。

 ああ。これは。そうだ。……小学校と中学校と高校の。

 決まりきった、ホームルームだ。

 何か問題が起こったときに、みんなで話し合う、でも筋書きなんか最初から決まっていて、話し合いなんて教室では本当は無力で、力をもつひとがもっと、力をもつだけで、そして、そして、……優秀なひとたちは、自らの感情的表現を利用することを厭わない、反省して、涙をこぼして、友情を語って、愛を語るなんて、お手のもので──。


「私の責任のもと、倫理監査局の臨時特別対策本部を立てたいと思います。無論これまでも倫理監査局は関係機関との連携のもと全力で公園事件に取り組んでまいりましたが。……私の提案する対策本部とは、まず何より峰岸狩理の確保と」


 役者のように。

 父は、言葉を区切る。エモーショナリィに。


「そして。峰岸狩理に然るべき処分を科した後には。倫理監査局の悲願である、犯罪者の血縁者に対するより倫理的な処遇──具体的には、猶予措置の解除、犯罪者の血縁者は即人間未満とするプロジェクトを、私の名において成功させます」

「……ま、まって!」


 杏奈は、思わず、言っていた──自分の声が、真っ黒な部屋に響く。おそろしいほど、大きく、反響するかのように。

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