徳の道

「私に、恥を、かかせないでよ」


 自動運転の車で、母はそれだけ言った。つぶやくかのように。


 流れるように、車は進む。

 自動運転の車がスタンダードとなった道路は、水の流れと同じだ。決まった通りに動いていく。信号は水を止めては流す栓で。

 渋滞とは旧時代の遺物だ。車は、ある程度優秀でなければ所有できない。社会評価ポイントが標準程度なら電車に乗るし、もっと低いなら、歩いて行く。それだけのこと。


 車に乗れる自分とは何なのだろうかと、杏奈は改めて考える――それはもちろん、家族が、親が、……優秀だってだけなのだけれど。


 首都の中央エリアに近づけば近づくほど、道を歩く人間は見当たらなくなる。


 深夜の首都。

 旧時代以上に連なる高層ビル。

 すべてが、優しい色にライトアップされている。パステルカラーのライトはハートマークや星のマークを描き、ここがすばらしい社会であることを、演出している。主張している。


 首都の中央エリア、四番ブロック。

 旧時代の最高裁判所の建物を黒く塗りつぶして使っているという倫理監査局の建物は、重厚で、堂々としている。石で組まれた遺跡にも似て――たとえば一万年後の人類が、ストーンヘンジとマチュピチュとNeco圏倫理監査局本部と見比べたら、わからなくなるねと子どものとき杏奈は喜々として家族に話したのだけれど、……人類の英知をばかにしないで、と母に声を荒げられたことを、どうしてだろう、こんなときにまで、思い出す。


 車が倫理監査局本部の駐車場に入ると、自動車用の受付で一時停止。窓が自動で開く。受付の、警備服を着た警備員が、満面の笑顔で敬礼する。


「お疲れ様です!」


 母は彼を一顧だにしない。ゲートに備え付けられたNecoが母と杏奈を認証して、ピコンとOKの音を鳴らす。杏奈は一定の社会評価ポイントを有する倫理監査局員の家族として、本部に入れるのだ。窓が閉まる。車が進む。

 杏奈はぺこりと警備員に頭を下げた。警備員は手元のタブレットに視線を落とし、杏奈を虚ろな目で見て、興味をなくしたようにうつむいた。先程の満面の笑顔が嘘のようだった。

 知っている。杏奈は別に、満面の笑顔を向けるような相手ではないのだ。とくに、大きな利益も見込めないのだし、誰も彼もに愛想を振りまくくらいなら、もっと優秀者に愛想を振りまきたいと考えている人間は多いってことも、とっくに、知っている。


 ……現実世界は、だから、いやだ。

 冷たくて。

 ずっと甘い夢ばかり見ていられたらいいのに。

 優秀者だって。あの警備員さんだって。……お店にさえ、来てくれれば。

 大好きなケーキを全部覚えて。

 毎回、おすすめだってできるのにな――。


 車は、倫理監査局本部の関係者専用の地下駐車場へ向かう。

 真っ黒に塗られた緩やかなスロープは、異世界に続くトンネルのようで。

 光で、文字が点滅する。まるでプラネタリウムのように。バイオリンの音の優しい、クラシック挨拶とともに――この曲は、「愛の挨拶」というらしい。


 だから杏奈はずっと、この道を「愛の挨拶の道」と呼んできたのだけれど。

 本当は、「徳の道」というらしい――猫が名付けた名前だという。


 駐車場だけではなく、徒歩通勤の道も、こうやって整えられているのだという。

 倫理監査局に勤める人間たちが、大事なことを忘れないように――。


 豊かな世界。

 人権を守る世界。

 倫理的な世界。


 豊かな世界をつくろう。

 人権を守る世界をつくろう。

 倫理的な世界をつくろう。


 愛。友情。平和。思いやり。


 そして、正義――とりわけ大きく、優しく、その文字が点滅する。


 蛍を見ることができたら、きっとこんな感じだろう――杏奈がそう思えていたのは、幼い頃だけだった。

 その、文字が、何を意味しているか、わかったときに。……この真っ黒な道に夢を見るのは、やめた。


 だけども、母はつぶやく。


「……いつ来ても、素晴らしい」


 うっとりと、つぶやく。

 

 姉と兄と、この通路を通るとき。

 姉はいつも、むせび泣いて。兄は真剣な顔をして、世界平和や、人類の正義について語った。


 豊かとか人類とか倫理とか。

 愛とか友情とか平和とか思いやりとか正義とか。


 まるで蛍のように、見せられて。感動できない自分のほうが――センスがなくて、おかしくて。……他者に貢献できない人間なんだって、遺伝子配列に失敗した可哀想な人間なんだって、杏奈は、教え込まれている。

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