甘く
だめだ。
まだ、何も聞いていない。
結局じゃあ、学生時代のそんなに長い時を使って、何をしていたの?
人間未満体験プログラムで。
あのお客さんは何を体験したの?
聞きたいところが。聞けていない。……聞けていない。
もっと良い聞き方があったのか。自問するけれど、杏奈には、やっぱりよくわからない。
人工知能と対話することさえ、もどかしい。
家族に聞くよりは、きっと。良いと思ったんだけど――。
チャイムがもう一度、ピンポン、と鳴った。
杏奈は、固まっている。
ここで、ドアを開けずに人工知能ともっと話をしていたら。だ
人間未満体験プログラムについて、そしてもっともっと、知りたいことについて、話をしていたならば。
自分の思い通りに、なる?
たとえばお母さんが諦めて帰ってくれたりして――。
『取梨杏奈さん。ご来客の通知がありました。お名前は取梨
また。……夢想だ。
甘すぎることばっかり考えてるって――わかっているのに、心が冷える。
「……それ、絶対に、出なくちゃなんだよね」
『その通りです』
「もし、出なかったら、どうなるのかな……」
ふと、部屋が白いことを全身の感覚で感じる。
天井も壁も床も、白を基調とした部屋。この部屋の決め手のひとつ。
杏奈は白が好きだ。ケーキのクリームの色みたいで。
だけどもかつて、お母さんは言った。倫理監査局の制服、しわひとつない真っ黒なコートを、リビングのポールにかけながら。お母さんとお父さんの制服は、むかしからずっとリビングの一番目立つところにあって、それはお母さんとお父さんと、お兄ちゃんとお姉ちゃんの誇りだった――自分にとっては、もうわからない。
あらそう。私は黒が好き。
黒は倫理監査局の制服の色。黒の意味を知っている? あなたは知らないでしょうけど。
何にも染まらない色。何にも影響されない。黒はすべてが混ざった、いわば最終地点の色。
人類の英知がたどり着いた場所。それを意味するために、倫理監査局は黒をとっても大事にする。
あなたは。半端な色にばかり染まるのでしょうね、杏奈。
そのときにもやっぱり、お母さんの話はよくわからなかった。
ゆっくりと、キッチンに視線を移す。
部屋の大きさには相応しくないような、大きくてしっかりしたキッチン。大きなオーブンまで備え付けてある。
この部屋の、一番の決め手。部屋が小さくたっていい、そのわりに、杏奈のお給料に対して家賃が高すぎてもいい。キッチンだけはしっかりしたものを使いたかった。
即興でケーキを作るのも好きだ。バックヤードの仕事では、決まったマニュアル通りにクリームを絞って飾り付けるだけだけれど、家でケーキを作るときには自由に作る。
スポンジとクリームだけのケーキは、何にでもなれる。イチゴもチョコレートも砂糖菓子のお家も、何だって載せられる。
だけどもかつて、お父さんは言った。杏奈が一生懸命作ったケーキを、ひと口も食べずにシンクに捨てながら、不機嫌そうに。水道から流れる水が。じゃあじゃあ、音を立てていて。
杏奈はいつまでも子どもっぽいんだな。
ケーキだのイチゴだのチョコレートだの、いつまでそんな、社会評価ポイントの低い女の子みたいなこと言ってるのかな。それに杏奈。スイーツなんて、有害だろう。ニコチンやカフェインと同じだよ、糖分だって、本来は。有害なものを摂取してもなお、生産性がその有害性を上回る人間だけが本来摂っていいものなんだ、……ああもう一刻も早く、糖分をもっと規制しないと、もっと、もっともっともっと。
ああ杏奈、まだいたのか。早く勉強しなさい。お姉ちゃんを見習ってほしいな。社会評価ポイントの高くなる女の子というのはお姉ちゃんみたいな子だよ、自分を恥ずかしいと思ってくれ杏奈――。
好きなひとなんか、できちゃったら。……もしかして、おつきあいなんて、しちゃったら。
そのひとにいっぱい、私のつくったケーキを食べてもらうの。
毎日、毎日。杏奈の作ったケーキは美味しいね、って。言ってもらうの。
私のケーキがおいしくて付き合っちゃった、とか言われたら、……最高なんだけどな。
それでね。いつか、……いつか私はパティシエになるの。
世界一、美味しいケーキを。いっぱい作って――。
かつて、お姉ちゃんとお兄ちゃんは、顔を見合わせて声を立てて笑った。
お姉ちゃんは言う。ねえ杏奈。いまどき、ケーキなんかのために付き合う人間がいると思う?
お兄ちゃんは言う。そうだよなあ。そもそもケーキなんか毎日、食べたがるやつがいたらさ、だからおまえは社会評価ポイントが低いんだよって話になるよ。
……どうして?
いまよりもまだ若かった杏奈の疑問は、当然のごとく、姉と兄に軽蔑の視線を受けて――。
お姉ちゃんは言う。……甘いものなんて生活必需品ではない。そんなものにかまけていると、健康を損なって、あっというまに社会評価ポイントが落ちるでしょう。栄養は計画的に摂るべきなの。
お兄ちゃんは言う。そうだよな。俺が倫理監査局に入ったら、過剰な糖分を禁止するためにも活動しないとな。より倫理的で、正しい社会のためにね。
お姉ちゃんの言葉が。まるで。お姉ちゃんが目の前にいるかのような距離感で、ひびく。
そんなものを――。
作るから。食べたがるから。
言いたくないけどね。……劣等なのよ。
……勘弁してよね。
だれが、あんたのこと人間でいさせてあげてると思ってるの? お母さんとお父さんが、仕事してさ。私たち、いっぱい、勉強しているからでしょう――。
『もし、取梨
Necoは、可愛らしい声で、淡々と述べる。
『申し上げづらいですが、あなたは倫理監査局から既定の罰を受けることになります』
……ばかなことを、またきっと考えていたのだろう。
甘く。甘く、甘く。
逆らえるはずもないのに。
……いつも通り、淡々と従えばいいだけ。
そう。考えなくていい。……考えることは、とっくの昔に疲れ果てて諦めたはず。
あのお客さんが、犯人なんだって――家族がそう言うんだから、納得して。
……記憶なんて、まちがいだったことにして。
あとは、すべてが終わったら、とびきり甘いケーキなんか食べてすべてを忘れてしまえばいいだけの話だ。きっと。きっと――。
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