伝統的人権論
――我々の社会は。
素晴らしい社会ですので。
『社会に害をなしうる者に対してさえも、チャンスを与えます。社会に害をなしうる可能性は充分にあるものの、まだ害をなしていない者の人権を剥奪するのは倫理的ではないという、倫理監査局の判断によるものです。我々の社会は非常に懐が深いと言えます。ここまでが人間未満体験プログラムの前提条件です。ご理解いただけましたでしょうか?』
はい、と答えたものの。
思考がうまくまとまらなかった。
本当は、はい、という言葉以外に何か言う必要がある――そう感じて、だけれども感情は言葉のかたちにはならなかった。
「その……プログラムというのは、それで……どういうものなんですか……」
人間未満体験プログラム――その響きには何か空恐ろしいものを感じて、杏奈は、言葉にはできなかった。
『人間未満体験プログラムは』
Necoは少し早口で言い、その後、ゆっくりと述べる。
『その名の通り、人間未満の状態を体験させるプログラムです。対象者は主に、社会に害をなしうる者です』
「人権制限とは、違うんですか?」
『人権制限とは異なります。人権制限は、対象者が人権を有することを前提に、人権の諸権利を制限することを言います。人権とは複数の権利の集合体です。人権制限中は、自由権のほとんど、社会権の一部、生存権あるいは幸福追求権由来の人権の一部、新時代の人権の多くが認められなくなります』
「自由権、社会権、生存権あるいは幸福追求権由来の人権、新時代の人権――」
中学三年生のとき、授業で聞いた言葉だ。教室の前方に設置されている、授業用のモニターに映し出されていた。
それらの言葉が何を意味するかは、興味がなくて、理解もできなかったけれど。
あの日、中学三年生の六月十日の午後二時十九分の時計を見た直後の、自身の視線が捉えた授業用モニターの情報を、杏奈は、唱えるようにつぶやいた。
「……自由権は、精神的自由権、経済的自由権、身体的自由権」
つねにモニターの上部に表示されている授業のタイトルは、『伝統的人権論』。
三分割された白背景のモニター。上方に赤字で大きく、『自由権、社会権、生存権(幸福追求権)由来の人権』と書かれていて。
その下に、更に、精神的自由権、経済的自由権、身体的自由権と書かれていた。新時代の人権という言葉は、ない。
そしてその下には、更に、言葉が続く。
「精神的自由権は、思想と良心の自由、信教の自由、学問の自由、表現の自由、集会の自由……あっ、川原先生がいて見えない……」
当時の自分は、その下の用語を目にできなかった。当時の担任で四十二歳だと言っていた
「……自由権って、ほかにはなにがありますか?」
『あくまでも伝統的な定義に基づきお話すれば、あとは、結社の自由でしょうか。結社の自由に関しては昨今、専門家のあいだで意見が分かれるところではあります』
「社会権は、生存権、教育を受ける権利、十分な生活水準を保持する権利……あっ、また先生が移動した」
川原先生は大声で話す。次にー、つまりー、社会権とはー、旧時代の国家体制のなかでー。
杏奈は、思い出の世界を早送りする。
時計は午後二時二十二分を指している。
「生存権あるいは幸福追求権由来の人権は……環境権、プライバシー権、知る権利……」
川原先生が大声で言う。指導棒で、モニターをがんがん叩きながら。
『みなさん! ここで言う、生存権あるいは幸福追求権由来の人権とは、旧時代国家体制下では何と呼ばれていたでしょうか? はいっ!
教室全体を見渡している川原先生と目が合う。
先生はすぐに杏奈から目を逸らす。
知っている。……先生は、杏奈が嫌いだと。
だけども、社会評価ポイントが高い杏奈のことを、あからさまに嫌えないことも。
『みなさん? この程度の問題ができなければ、あーっというまに、劣等者になってしまいますよ! ――あなたたちが持つ、ここにあるすべての権利が守られてているのは、あなたたちが人権をもつ人間として社会から認められているからですよ!』
先生は、杏奈をちらりと見る――見られなくったって、わかっていた。
自分は、この程度もできない、あっというまに劣等者になるべき人間なんだ、って。杏奈は。……とっくに。
『人権はすべての人間に存在するなんて、思ってはいけません! それは旧時代の古い古い、とってもオールディな考え方です! 人間であるため、人間になるために、努力をする! 努力をし続ける! これこそが、私たちの新しい社会の礎なのですから――』
「そうですね。生存権あるいは幸福追求権由来の人権には、一般に、環境権、プライバシー権、知る権利が含まれます」
これは、現実の、いまのNecoの声。
……頭が痛い。杏奈は、こめかみを押さえた。ひさしぶりに、戻ってしまった、……中学時代に。
授業も人間関係も、理解できないことだらけで。本当ならばお前は劣等者なんだという周囲からのメッセージを、受け取り続けて。……だけども、家族が優秀で。
ただそれだけで、人間であり続けた――言葉と知識の記憶であふれて、あふれすぎて、おぼれそうになっていた、中学時代にそのまままるごと、戻ってしまった。
いままさに体験していることのように、頭のなかで、すべてがよみがえる。
いついかなる時にだって、戻ろうと思えば戻れる――戻りたくないのに、戻ってしまうときさえある。
杏奈にとってこれは、理解されない感覚だった。
家族も、教師も。記憶のなかに戻れるという杏奈の性質を、わかってはくれなかったから。
いまはもう、ただただ怖くて、……心の底では少し面倒で。友達を失いたくないから、杏奈はもう、記憶があんまりにも近いことをだれにも話さなくなっていた。
「それら人権の諸権利が完全には保護されなくなる状態が、人権制限で」
Necoは、杏奈の頭痛なんて気づいていないから。……知るよしもないだろうから。
滑らかに、可愛らしく、しゃべり続ける。
「それら人権の諸権利を、期間を定め、その期間内は全て剥奪する状態に置くのが、人間未満体験プログラムの最も簡潔な定義と言えます」
いつも通りに。
「つまり、人間未満と同じ状態に置く、ということです」
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