感謝、美しい響き

 のろのろと、杏奈は支度をする。


 スーツをいまから買う……わけには、いかないから。

 しっかりとした……なるべく、しっかりとした格好……。心のなかでつぶやきながら、ゾンビのように、杏奈は動く。


 違和感は、あるけれど――従わなくては。母には。家族には。……きちんと。

 どれだけのことをしてもらっているのか、杏奈はわかっているつもりだ。

 ……恩知らずでは、ないつもりだ。


 杏奈の家族は、杏奈を軽蔑しながらも、杏奈にきちんとサブジェクティブ評価を与えてくれている。充分すぎるほど。

 社会評価ポイントの辞退、という制度はないし。仮にそういった制度が存在しても、……じゃあ社会評価ポイントなんて要らない、と言い張れるほど、自分が強くないことも、……ずるいけど、実は心のどこかではわかっている。


 杏奈はただただ、倫理監査局の四人が与えてくる社会評価を、口を開けて飲み込んでいるだけ。

むかし学校の授業で立体映像を見た、フォアグラにされるためにエサを流し込まれるガチョウ。杏奈は、自分自身があのガチョウに少し似ていると思う。


 ガチョウと、違うのは。いつか殺されて食用にされるわけではない。ただ、きっと、杏奈が人間未満になどなろうものなら、一家の名誉に傷がつくから。

 ただただ、人間であり続けろ、と。

 サブジェクティブ評価を、与えられ、与えられ、与えられ続けているだけだ、……優秀ではなかった杏奈はもはや、人間であり続けることだけを、家族から期待されている。


 ……ほんとうに。心の底から。わかっている。

 むかしから、学校でうまく馴染めなくても。不器用で、勉強もそこまで得意ではなくて、周りから浮くことがあっても。


 杏奈はけっして、いじめのターゲットにはならなかった。

 教師からも、それなりにきちんとした対応を受けた。

 それは――杏奈が家族から与えられている社会評価ポイントが、既に大きいものだったから。


 建前上、杏奈の家族は、杏奈の「優しさ」と「独特な感性」と、そして「記憶力」を評価していた――心の底から評価していなくとも、サブジェクティブ評価のシートには、そう記入していた。


『杏奈は暗記科目だけは点数が取れるもんね』


 百点が取れなかったら泣きわめく姉から、つねに地域のトップを走っていた兄から。

 三十点や四十点のテストを、晒されながら。

 杏奈は、いつも、そう言われていた。


 家族から社会評価ポイントを与えられていた杏奈は、たいていどこに行っても人間として扱われた。

 だから、やがては。杏奈が多少不器用で、鈍くても、理解して付き合ってくれる友達に恵まれた。


 だけど――もし、家族からもらった社会評価ポイントが、少なかったら?


 ……きっと、いじめられていただろう。

 すくなくとも。軽蔑されて、孤立して。

 まともな学校生活なんて送れなかったに違いない。


『いいか、杏奈。感謝の気持ちを忘れてはならないよ』


 それは、父の、きれいな教え。


『特にお前のような劣等者はね。優秀者に感謝し続ければ、生きていけるよ。……感謝。美しい響きだろう?』


 そのときも、杏奈は、確か。

 はい、としか答えられなくて――。


「……感謝って……大事だよね……」


 きれいな言葉を、つぶやいて――その顔がすべての思考を放棄するかのように虚ろであることを、杏奈は、気がついていない。

 ケーキショップで働いているときの明るい笑顔とは、まるで別人のようだった。


 そうだ。感謝。……感謝しよう。

 自分に社会評価ポイントを与え続けてくれる家族に。人間として、生かし続けてくれている家族に。感謝。……感謝だ。


 家族に、感謝――。


 でも、と思って――呼吸が止まるかのような、苦しさを、覚える。

 それはきっとふたつの苦しさ。


 家族から馬鹿にされ続けている自分の、苦しさと。

 それでは家族に社会評価ポイントを貰えなかったひとはどうなるの、なんて。これまでろくに考えたこともなかった、苦しさ――。


「……ねえ、Neco」


 人工知能の名前を呼ぶと、すべての家に備わっている家庭用Necoが、にゃん、と可愛い声で応えてくれる。本当はNecoを起動するためのコマンドが必要らしいのだけれど、ねえ、と言ってもこの賢い人工知能は応えてくれる。


「感謝って、大事だよね?」

『お答えします、にゃん! 感謝はとっても大事ですよ! 社会は感謝で回っていると言っても過言ではありませんっ。人間同士で、優れたところを評価し合う素晴らしい社会の基本には、感謝が存在しています!』

「……そうだよね。感謝を。しないと」


 クローズドネットは、やっぱり正直、怖くても。……母の言いつけを破ることが、できなくても。

 クリーンでクリアな人工知能、相手だからだろうか。


 普段、Necoというのは、せいぜい電気や家電をオンオフしてもらう存在で。問いかければ返事が来るとわかっていても、優秀なひとたちはNecoにどんどん問いかけて答えを貰っていると、知っていても。

 自分は、億劫だし、そこまでする気力も動機もなくて。問いかけて調べものをすることなどほとんどないのに――杏奈はぽつりと、問うていた。


『あの。……家族に、社会評価ポイントを貰えなかったひとって、どうなるの?』


 Necoは。

 ほんの一瞬、沈黙した後――。

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