倫理の御役に立つために

 母は、吐き捨てるように言う。


『死んでもなお、遺伝子を継いだ子どもが事件を起こして、迷惑をかけるのよね。だから犯罪者の子どもなんて全員すぐに人間未満にすればいいのよ。どうして猶予なんか与えるのかしら? 結局、税金をつぎ込んで特別な教育をしてやったところで、裏切られる。クズの子どもは所詮、クズなのよね』

「……特別な、教育?」

『ああもう杏奈、早く本部に行かないと。これからお母さん、迎えに行くからね』

「えっ? 今から?」


 杏奈は思わず、壁にかけているオールディでキュートなアナログ時計を見る。

 もう、こんな遅い時間だというのに。


『今からに決まってるでしょ。事件は予断を許さない状況なの』

「……そ、それなら、ひとりで行けるよ」

『あんたひとりで本部に来なさいと言ってもね、時間通りに来るか心配だから。それにね、あんたは、もう、事件の参考人って扱いだから。あんまりひとりで行動させるわけにもいかないの』


 通話。かけ直そうと思っていたのに。

 新時代情報大学の、対策本部に――あれ、でも。


 倫理監査局の本部に行けるなら、もう、新時代情報大学の対策本部に連絡する必要はない?

 倫理監査局の本部で、あのお客様について話せば……それでいい? それで、……対応してもらえる?


 ……だけど。

 倫理監査局は――あのお客様のことを、……疑っている。


『本部に着いたら、知ってること、正直に全部言いなさいよ? あんた記憶力だけは悪くないんだから。事件の役に立てば、オブジェクティブだってサブジェクティブだってたんまり貰えるんだから、きちんと倫理の御役に立ちなさい』


 倫理の御役に立つ――倫理監査局のひとたちが、とりわけ好む表現だ。社会に生きるひとびとだって。……倫理の御役に立つために、と言われてしまったら、逆らえない。

 だけど。杏奈は、この期に及んで、倫理の御役に立つというのはいったいどういうことなのか、よくわかっていない。


「……はい」


 わからないまま、返事する。


『じゃあ、支度しといて。こっちも今から向かうから。タクシー拾うから、三十分くらいかしらね。きちんとした服装で行くのよ。間違っても、あんたがいつも着てるような、ひらひらの、馬鹿みたいな服で来ないようにね。スーツのひとつくらい持ってないの?』

「……ごめんなさい、持ってない」


 母はデバイスの向こうで、盛大なため息をついた。


『そのくらい、買っときなさいよ。……ああ安月給だから、買えないのか』


 嘲笑するように、言い切って。

 お金も、地位も、名誉も、もちろん社会評価ポイントも。存分に得ている母は、ほとんど唐突に、通話を切った。


 母の声の余韻が、耳に、……痛い。


 天井を見上げると、黒い、猫型のシールのような装置が、無言で杏奈を見下ろしてくる。

 それは一家に最低一台、設置が義務づけられている、ホームタイプの人工知能Neco。


 Necoは、話しかければ可愛い声でにゃんと応答してくれるけれど――この世に生きる人間ならば、きっと誰しも知っている。

 可愛い猫の形、可愛い声をしたNecoは、自分たちの一挙一動をすべて監視して記録しているのだ、と。じっと、沈黙して。


 ……たしかに、人間は倫理的になったのだろう。

 家のなかでだって、下手なことはできない。


 対等な人間同士においては。

 DVも、いじめも、犯罪も、たしかにほとんど消滅した。


 だけど、対等ではない人間同士においては――。


 ……わかっている。

 生かされて、いるのだと。


 家族に、感謝して、従わなくてはならない。

 現状が、きっと自分の最高だと杏奈は弁えている。ひとり暮らしを許可されて。好きな仕事をさせてもらえて。同居や職業を強制されることもなく。

 普段は、ほどほどの距離感で、生きられている。


 ……家族の意に沿わないことなど、してしまったら。

 自分は終わると――杏奈は、弁えている。


 ……だけど。どうして。

 いま、母が来て、ともに倫理監査局に向かう――そんな簡単なことに、こんなにも抵抗感がある、……あのお客様は、ほんとうに、ほんとうに、……犯罪者なの?


 倫理監査局は、いつも正しいはずだから。

 間違えるわけ、なくて。だけど。……だけど。


 ……間違っている、ことがある。

 今回に、限っては。


 だって。あのとき。

 ほかに、お客様なんて、いなかった。


『でもきちんと隣で、聞いてたお客さんがいたんだって。とっても、とっても優秀な方みたいよ、なんとあの国立学府の学生さんなんですって、あの、国立学府!』


 隣で、話を聞けるような距離で、お客様なんて、いなかった――。

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