あの峰岸
杏奈はぼんやりして見えたが、内心では耳を塞いでしゃがみ込み、必死に、自分に言い聞かせていた。
お母さんは、正しいんだ。正しいんだ。正しいんだ。
そうだ。……正しい。
倫理監査局の支部長にまで上り詰めたお母さん。「誉れある」と多くのひとに言われる、倫理監査局の本部常務であるお父さん。
トップクラスの私立大学で法学を専攻して、倫理監査局付属の裁判所で裁判官補助をしているお姉ちゃんは、このまま順当にいけば倫理監査局の裁判官になるだろうし、更にそのまま進めば倫理監査局での出世が約束されているのだという。
お兄ちゃんは国立学府に準じると言われる公立の大学を出て、倫理監査局の本部で勤務している。今はまだ新人だけれど、……お父さんとお母さんが倫理監査局員だし、お兄ちゃんもいずれは偉くなっていくのだろう。
そんなに珍しい話でもない。一家で倫理監査局勤務というのも、すごくよくあるというわけではないけれど、まあ、あると言えばある話で。
みんな正しい倫理を身に着けているから、できるのよと――お母さんは、いつか笑っていたっけ。
そう。だから。
杏奈の家族は、正しい。
昔から、そうだったはずだ。
家族みんなが、正しい。
杏奈だけが、正しくない。
実は、家族は正しくないんじゃないの、なんて。
疑うのは、もうやめた。……ただただ、疲れるだけだから。
だけど。……だけど、だけども。
いまは。あのお客さまについては。
うまく言葉にできないけれど。お母さんに説明できる自信なんて、微塵もないけれど。
違う。何かが違う。何かが。
正しくない――。
あのときの。あのひとの。
表情は。時刻は。風景は。
そばにだれか他に客がいたか――。
杏奈は細かく、時間を巻き戻して映像を再生するかのように、鮮明に思い出していた。
そして、母に聞く。
「……そのひとの名前とかって……わかったり、するの?」
『そのひとって、だれ、何のことよ、言葉の意味内容をはっきりさせて話してくれない?』
「その……私が今日、会った? っていう? 犯罪者のひと」
『峰岸狩理っていうんだって。あんたは知らないでしょうけど、あの峰岸の息子よ、あの峰岸。本当に酷い事件だった。人権なんて何とも思ってない鬼畜の所業。生きてれば監査局が徹底的に苦しめて見せしめにしてやったのにね、世のため人のために。最近ではほら、ただヒューマン・アニマルにするだけじゃなくて、博物館や動物園や水族館に人間未満を飾っておくなんて合理的な手法も出てきたから、って、あんたは疎いから知らないでしょうけど』
「……峰岸ってひと、有名なの?」
母は、ため息を大きくついた。わざとらしすぎるほどに。
「有名どころじゃないわよ。倫理に携わる人間だったらみんなが知ってるわね、お父さんもお母さんもお姉ちゃんもお兄ちゃんも全員! 知らないのはぼうっとしてるあんたくらいよ」
「……ごめん……」
普段なら、ここで引き下がる。
だって、怖いから。話していたくないから。……全然、なんにも、わかりあえないから。話せば、話すほど。
早く自分の大好きな、甘くて柔らかくて優しい世界に戻りたいから――。
……だけど。
今回ばかりは――ここで、引き下がるわけにはいかないと、自分でも驚くほど、……気持ちが、冴えわたっていた。
「あの……ごめんなさい。私が知らなくて。でも……知りたいの。峰岸ってひと……検索すれば、出てくる?」
『やめなさい。犯罪者の情報は、オープンネットからは全部、監査局が消去してるから。クローズドネットには峰岸の情報はまだごろごろしてるけど、監査局は、クローズドネットを推奨していない。利用しないように告知も出しているし、Necoのサーバーにも働きかけてるんだけど、……なんでなくならないのかしらね、あんな蛆虫ばかり沸く汚い場所が……。一斉取り締まりも予定してるから、頼むからあんた、クローズドネットになんて手を出すんじゃないわよ』
「……わかった。その、じゃあ……教えてもらえないかな、峰岸ってひとのこと」
母は、大きなため息をついて――だが、少しだけ教えてくれた。
杏奈がまだ、すごく小さなころ。峰岸という名字の男が、人とも思えない残虐な事件を起こした。
……それは、確かに、杏奈が聞いても、ひどい事件だった。
本人はその場で死んで――この世で、倫理による罰を下すことは、かなわなかった。
『峰岸みたいな犯罪者が出てくると、倫理の秩序が乱れるの。ねえ杏奈。この世の中は素晴らしいでしょう? あんたみたいなぼけっとしてる子でも、犯罪に巻き込まれないで、生活に困らず、遊んで暮らせるほどに。旧時代に比べて、犯罪率はぐっと低くなった。犯罪者は問答無用で、人間じゃなくなるんだから』
母は。正しい話を。とても。……正しい話を、いつものようにしてくる。
『それはね、高柱猫の作った、新しい人間のための倫理が素晴らしいのもあるけど。私たち監査局が、必死に彼の倫理を受け継いで守り続けているからなのよ。なのに、なのに、峰岸みたいなゴミ虫が、どうしても、出てくる。……今度はゴミ虫の息子がまた社会を汚した』
「……その、息子、っていうのが……私が、今日会った、お客さんなの……?」
『そうよ。やっぱりゴミ虫みたいな面構えをしてた?』
正しく。嘲笑うように、母は言う。
杏奈は、母に見えないとわかっていて首を横に振ったが――ううん、と母に言うことは、できなかった。……久しぶりに、ひやっとするような苦みが、全身を覆った。
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