だれよりもこの世で正しい家族
ぶつり、と音がして、通話は途切れてしまった。
「――もしもし。もしもーし、もしもし? ……切れちゃった」
取梨杏奈は、何度かスマホ型デバイスに話しかけた後、諦めてスマホ型デバイスを耳から離して両手で持った。ふう、と息をついた表情は、今日、去っていく背中を追いかけられなかったお客への心配で満ちていた。
勤務中、あのお客のことが気になって、仕事が手につかなかった。また店長に怒られてしまった。
杏奈は、自室の、床に置いているソファに座って通話をしていた。
2Kの、一人暮らしの洋室。けっして広くはないが、脱いだ服が床に置きっぱなしになっている他は、きちんと整理整頓されている。本人が思っているほど、散らかった部屋ではなかった。
ホワイトの家具で統一し、ところどころにカラフルな雑貨を飾っている。シンプルながらもどこか甘いテイストの感じられる部屋だった。
物は少ないが、大切そうに飾られた友達との写真や旅行のお土産から、人付き合いを大事にする人柄が伺える。
ただ――家族の写真だけは、存在しない。
「もう一度かけよ……」
他には誰もいない部屋でつぶやいて、スマホ型デバイスをタップしたときだった。
急にデバイスが震えて、杏奈は思わず声を上げてデバイスを落としてしまう。
「……えっ、な、なに、え? ……お母さん? こんな時間に?」
もう、深夜だというのに。
杏奈の表情は、急に強張る。
緩慢な動作でデバイスを手に取り、三度、振動をやり過ごして――。
「……もしもし?」
杏奈は、おそるおそる母からの通話リクエストに応じた。
『――ちょっと杏奈? あんた、いったい、なにしたの』
「な、な、なに」
母はいつも怖い。杏奈の家族はいつも怖いが――普段の怖さを遥かに上回る迫力に、杏奈は思わず身体を引く。
『容疑者と接触したんですって? ほら! あの! 公園事件の!』
「……え、してない」
『嘘おっしゃい! あんたって子は……いつも……ぼんやりして……話の通じない……お姉ちゃんたちとは大違い……』
「……え、えっと、ごめん」
よくわからないが、杏奈はよく両親から怒られる。
どんなに考えても、どうして怒られるのか本当のところがわからないので、いつしか杏奈は起こられる理由を考えるのをやめた。
杏奈の家族は、とても正しい。
途方もない、倫理なんてものを取り扱う、しっかりとした仕事に全員就けるほど。
とてもとても、正しいから――そんな正しい彼らの言うことがよく理解できない自分のほうがおかしいのだろうと、特に悲観的になるわけでもなく自然に、杏奈はそう思うようになっていった。
『通報があったのよ! わざわざ! 名指しで! あんたの、なんだっけ、バイト先か何か知らないけど、遊んでるような店よ』
「遊んでる店……? たまにゲームセンターとか行くけど……」
『そんな話ひとっつもしてないでしょ、あんたって子は本当に!』
きん、と言葉が響いて、杏奈はスマホ型デバイスを耳から少し離す。
「バイトだかなんだか知らないけど、あんたが遊びみたいに働いてる店よ、店、あそこで、あんたと公園事件の犯人が仲良く喋ってたのを聞いたって方から、本部の方に、わざわざ! それで、うちの家族だからってもう、騒ぎになって、大変だったわけ! お父さんとお兄ちゃんが今、こんな時間なのに、本部のほうまでわざわざ出て行ったんだから!』
「……あ、そ、そうなの?」
『まったく良い迷惑よ、久々にゆっくりできてたのに……』
ぶつぶつ、ぶつぶつ、と杏奈の母は不満や愚痴を言い続ける。
杏奈は母の言葉を、呆けたように聞いていた。いつからか、家族の言葉は、耳をすり抜けるようになっていた――とっても良いことを、凄いことを言っていることはわかるのだけれど、それ以上は、自分にはついていけない。
家族の言葉を身体に入れては流し出す時間は、好きなことについて考えるようにしている。
ケーキ。イチゴのケーキ。イチゴのタルト。……イチゴが旬の季節は、やっぱり、楽しい。
ぴかぴか光る、きれいなイチゴ。無謀だろうけど。いつかは自分の店を持って、オリジナルのスペシャルなイチゴのケーキを創ってみたい――。
『それで杏奈!』
「は、はい」
突然、母の言葉が戻ってきて、杏奈の両肩はびくりと跳ね上がった。
『あんた! 今日! 公園事件の容疑者と! 話したでしょう?』
「……ご、ごめんなさい、お母さん、なんの話だか、わからない……」
『だから! 夕方! ――自分の人権は剥奪されるだろう、とか話してた客がいたんでしょう?』
――そこで、やっと。
あのお客さま――まさに今日の勤務中、頭がいっぱいで仕事が手に着かなかった彼の話をしているのだと、結びついた。
『尻尾を出したのね。罪悪感に耐えられなくなったのよ。それで、あんたみたいな、社会的に底辺に近い人間にぽつりと漏らしちゃったのね。こんな事件起こしたら、きっと人権なんて剥奪されるだろう、って。でもきちんと隣で、聞いてたお客さんがいたんだって。とっても、とっても優秀な方みたいよ、なんとあの国立学府の学生さんなんですって、あの、国立学府! その方が通報してくれて、情報が本部まで上がってきて、それで、これは取梨さんの家の子じゃないかって話になったんだから、もう、――ケーキショップの店員なんて取梨さんの家の子らしくないですねなんて言われて、お母さんたち恥ずかしかったんだからね!』
いつも通り、意識が甘い空想の世界に飛びそうになるのをどうにか押さえて――杏奈は、母が何を言いたいのか、必死に掴もうとしていた。
『お母さんもお父さんもお姉ちゃんもお兄ちゃんも。杏奈と話したやつが容疑者の可能性が高いって、経験上、わかってるんだから!』
母たちは――もしかしたら、もしかしたらだけれど。
あのお客さん――峰岸狩理と名乗った彼が、公園事件の犯人だと言っている?
杏奈の頭は、真っ白になっていた。
あのひとが? 公園事件の? 犯人?
――とても、とても信じられなかった。
杏奈の記憶に。雨のなかに消えていく背中が、こびりついて、離れない。
……公園事件については、当然、杏奈も知っている。
大切な人たちが帰ってこず、嘆き悲しむひとたちをニュースで見て、心を痛めていた。
『杏奈? 聞いてるの? 杏奈?』
杏奈は、デバイスを握り締める手にぎゅっと力を込めた。
……お母さんの言ってることだから。
正しいのだろう。きっと。……そうなんだ。
まだ、よくわからないけど。納得できないけれど。
あのひとは、きっと、それでも、……犯罪者だったんだ。
だけど。……だけど。
そんな悪いことをするひとなら――どうして、あんなに寂しそうだったのだろうか。
……むしろ消えてしまいそうだった、すぐに、どこかに、知らない場所に、……寂しい場所に、だれもいない、冷たくて暗い場所にたったひとりで去ってしまいそうで――。
そんなひどい事件を起こすようなひとには、見えなかった、あのお客さんは、いつも控えめに微笑んでいて。仕事ができそうで、自信たっぷりで。でも、どこかいつも少し控えめに、……卑屈に、微笑んでいて。
あの笑みが。頭から。ずっと離れなくて。
あんな笑い方をするひとが――そんな、他人をまるごと飲み込むような犯罪ができるとは、思えなかったけど、……けれど。
でも――だって。
お母さんたちが。
あのひとが、犯人なんだ、って言っている。
杏奈以外は一家揃って、倫理監査局勤務という、だれよりもこの世で正しい家族が、全員。
あのお客さまこそが、いろんなひとを傷つけている公園事件の犯人なんだ、って言っている――。
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