重要な情報
――この問い合わせにはとりわけ慎重に対応しなくてはならない。
「……あくまでも、一般論としましては。今回の事件に関して、人権を剥奪される可能性があるのは、犯行を行った者です。他に考えられるのは……たとえば事件に関連して事故や過失を犯し、よほどの害を社会に与えた者ですが」
対策本部の自分たちにも、その可能性はある。
たとえば、この事件がうまく解決できずに、世間から非難される。そして社会評価ポイントが一気に下がり、その水準が人間未満の域まで達する――という場合が、想定される。理論的には、あり得る。
だが、現実的にはほとんどそのようなことはあり得ないと言っていい。
世間から仮に非難されて、マイナスのサブジェクティブ評価が集まってきても――何か事件の対策をするような人間は、一般人たちからの、塵も積もれば山となるサブジェクティブ評価に充分耐えておつりが来るほどの社会評価を、既に得ている。
無論、超優秀な人間からマイナスのサブジェクティブ評価が来ることも考えられるが――これも、現実的にはほとんどあり得ない。
マイナスのサブジェクティブ評価をしてきた者の名前や情報は、開示請求できる。事件解決という公共の利益のために仕事に携わっていたのに、仮にただ「解決できない」という理由だけで大きなマイナスのサブジェクティブ評価をしてきたとなれば、今度は評価してきた方が評価された側からのマイナスのサブジェクティブ評価を受ける。
要は、マイナスのサブジェクティブ評価の応酬となってしまうのだ。双方、得をしない。
だからこそ、優秀になればなるほど、他者に対するサブジェクティブ評価は慎重に――ありていに言えば甘くなる傾向がある。
プラスのサブジェクティブ評価は、プラスのサブジェクティブ評価を生産するのだ。……そうなるともはや何のための社会評価か、と指摘する社会学者もいるが、そういった学者に限って、社会評価ポイントがいつもギリギリなのは周知の事実でもある。
今回の事件。対策本部が、たとえば、……人権が危うくなるような目に遭う、という可能性について。
絶対、という言葉は世の中には存在しないが――大丈夫だろうと、寿仁亜は踏んでいた。
そんな思考を一瞬のうちに終えて、電話相手からすればほんの一瞬の間を経て、寿仁亜は言葉を続ける。
「通常、事件に関わっただけで人権剥奪の事態になるとは、考え難いです。ですので、やはり、犯行を行った者になるかと」
『……人権を剥奪されるのは。基本は、犯罪者、ってことですか?』
「そうですね。おっしゃる通りです」
女性は、電話口で、黙った。
砂の流れるような音。……あまり良いインターネット回線を使っていないことが、寿仁亜にはすぐにわかる。
『……いやな言葉ですよね。人権を剥奪される、って』
「ええ……」
唐突に始まった彼女の話だが――きちんと、耳を傾けねばならない。何が。……何が隠れているんだ、この話には。
『私、使いたくないです、こんな言葉。でも、そう言わないと、他のひとに伝わらないから……』
「人権を剥奪されるって言葉を使わないと、ということですかね」
『そうです、そういうことです。ありがとうございます。どうしてわかるんですか?』
明るくて、人が好いが……いや、だからこそ、ちょっと抜けているのかもしれない。
『昔から、話がわかりづらいってよく言われるんです……結局、何が言いたいの? って。家族からも。よく言われてきて。あの……今もそうですよね、きっと、ごめんなさい』
「……いえ。大丈夫ですよ。お話いただいて、本当に、ありがとうございます」
『優しいんですね。えっと、対策本部の、依城寿仁亜さん、ですよね』
「ええ」
『……聞いてもいいですか? あるひとのお話なんですけど。私はそのひとと、そんなにすごい仲が良いとかじゃなくて、全然、すごく付き合いがあるとかでもなくて、でも、……すごく気になるんです、気になってて、ずっと気になってるんですあのひとのことが』
「もちろんです。ぜひ、……お話しください」
胸の鼓動の音が、大きくなってくる。
まったく関係がない話の可能性もあるのに――直感が、こんなにも騒ぐ。
『私は、第三駅前の繁華街の、ケーキショップで働いているんです。最近何度か来てくれるお客さまがいて。その方が――』
ザザザザザッ、と。
暴力的なほどの音が混ざった。最初は、彼女のそう良くはないであろう回線がトラブルを起こしたのかと思った。しかし。違う。……違う。
『――来てくださって――タルト――イチゴの――特別な――』
音をこれ以上ひとつでも聞き逃すまいと子機に強く耳を押し当て、手元のキーボードでNecoを起動し、モニターを下ろし、急いで電話機とインターネットのプログラムの修復を試みる。だが。……追いつかない。
音声をやり取りする機能が損なわれている。すさまじい勢いで。
『行ってしまって――そのまま――私――あのひとは――』
……声が。言葉が。貴重なはずの話が、聞き取れない。
「……冴木先生! 申し訳ありません。お手をお借りできませんか」
冴木教授はことの重大さを察知してくれたようで、すぐに隣に来て、修復に取り掛かり始める。キーボードを打つ。打つ。打つ。
トップクラスの冴木教授の速さ。だが。……追いつかない。追いつかない。
『――で――です――あの――聞こえ――もしもし――聞こ――』
乱暴で、暴力的な、砂の音に。
彼女の言葉のすべてが。……搔き消されていく。
「……クソ……こんなんやってくんのは……あいつらだけだろ……俺のスピードをこんな易々と超えてくんのはよお!」
悔しそうに、冴木教授は吠える。
寿仁亜は言葉にこそしないが、……思い切り吠えたい気持ちは、同じだった。
『もし――も』
ぶつり、と。
馬鹿にするかのような音を立てて、通話が、……強制的に途切れた。
「――クソッ」
冴木教授は、拳でテーブルを叩いた。
「――先生、ありがとうございます、本当に、僕の力不足ですみません、……でも当たりということだと思います、これは」
わざわざ。
向こうから、仕掛けてきた。
黙って成り行きを見ているだけで良かっただろうに、――よほど、こちらに掴ませたくない情報だったのか。
「急ぎ、逆探知を開始します。今、電話してきた方が持っている情報は、重要である可能性が高いです。何が、何でも。……今の電話の主を、探し出します」
寿仁亜は話しながら既に、素子にショートメッセージを送り、ほとんど同時に逆探知をするためにキーボードを打ち始めていた。
幸い、電話の主は個人情報を残してくれた。第三駅前の繁華街の、ケーキショップの店員。素子であれば、該当の人物を割り出すことくらい、きっと造作もない。
冴木教授も、隣でキーボードを打ち続けて、協力してくれる。
「おい。そこまで大事な話だったのかよ」
寿仁亜は、今の話について、そして重要な情報である可能性が高いことについて、説明した。
「ふうん。俺にはよくわかんねえな、そういう勘は、あんまりねえんだ。……まあ、依城が言うなら、そうなんだろうよ」
「……ありがとうございます。先生」
信頼してくれているのが――本当に、心強い。
逆探知で、簡単に見つかるとは思っていない。
犯人たちが、手を加えてきているのだから。
だが――やれることは、すべてやる。
やってやる。……たとえ相手の掌の上で踊らされているだけだとしても、その掌の上から、一瞬でも転がり落ちることのできるタイミングを、獣のように伺って。
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