人間でした

「……ああ。あの。ちょっと」


 近くに寄ってみたもんで、なんて。言い訳すればいいだけなのに。

 簡単な言葉が出てこない。

 簡単な言葉さえ出てこない。


「いらしてくださって、嬉しいです! あっ、イチゴのお味、どうでした? ずっと気になってたんですよ、お客様、どうだったかなあって。自信作ですけど、やっぱり実際に食べていただかなきゃってとこあるじゃないですか!」


 きらきらと。純粋に。まくしたてる。

 まっすぐで。純粋な。媚びも、衒いもない。


 灰色に煙った世界で、このひとはどうして、なんで――こんなにも、灰色の世界がまるで見えていないかのように。


「……美味しかったですよ」


 蹂躙されるかのように、ぐちゃぐちゃにされたイチゴ。

 この店員の気持ちを、すべてそのまま踏みにじるような。


 そして、自分もそれに加担している。

 イチゴは、ぐちゃぐちゃに殺されたことを知っているのに、そんなことひとつも言わないで。


「ほんとですか? きゃーっ、嬉しい」


 彼女は既に、向こう側の世界の人間のように思える。

 ヴェールがかかっているかのようだ。自分自身の意識に。いや、それ以上に、……人間ではない側と、人間側に。


「だったらお客様、これ、今日入ったばかりの新作なんです。冬に糖度が増すスペシャルなイチゴを使った、面白いんですよ、タルトで……あっ、なんか、営業してるみたいですね。お客様、今日はタルトを買いに来たりとかじゃ、ないですよね?」

「ええ、まあ、普通のケーキって言えばいいんですかね、ケーキには詳しくないですけども、クリームを使ったこう普通の」


 ヴェールの向こうで。彼女は、口に手を当てる。


「そうですよねえ。でも、でも、美味しいんですよ。どうしようかなあ……えっと、いま、店長、席を外してるんです」


 ちらりと、警戒する小動物のように彼女は店のバックヤードを振り仰いだ。


「食べていただきたいので、その、イチゴのタルト貰っていただけませんか? ちょっと盛り付けを間違えちゃって……貰ってもらえれば助かるなって思ったりとか、えへへ、思ってるんですけど」


 彼女はバックヤードに引っ込み、きれいな箱を持ってきた。

 そのなかには、確かにイチゴの目立つタルト。


「じゃーん。どうでしょうか。イチゴがぴかぴかです」

「……誰にでも」

「え?」

「御宅は、そういう関わり方を、してるんですか」

「えっと……」

「崩壊しますよ。店が。経済が」

「……あ、すみません」


 遠い世界で。

 彼女は、しゅんとした素振りを見せる――落ち込んだ様子も、隠さずに露出できる純粋さ、……他者への、信頼。


「だいたい、社会評価は……大丈夫なんですか。誰彼構わず商品を渡したりして」

「でも……あの、捨てちゃうだけなんです。ちょっと盛り付けが悪いだけで。もったいないです……味は、変わらないのに」

「……そういうことを言ってるんじゃなくてですね」


 狩理は、右足で二度三度軽く地を叩いた。

 ああ、この感じ――やっぱり、同じだ。


 幸奈と話しているときと、同じ。

 言葉が丁寧語なだけで。他はすべて、話し方の響きもトーンも――。


「どんな人間がいるかわからないわけです。もし俺が、ここの店のオーナーですかね、個人店なのかフランチャイズなのか何なのか知りませんけど、関係者で。店の様子を見るために来ているのかもしれない。そうしたら御宅はお終いなわけですよ。マイナスの評価を喰らって」

「……でも、お客様は違いますね」


 今度は狩理が、え? と言う番だった。


「こうやって、教えてくださるわけですし……」


 ……甘い。

 甘くて甘くて、仕方がない。


「ありがとうございます。教えてくださって」


 彼女は、頭を下げた――それはケーキショップの店員という、とくに社会評価ポイントも高そうではない人間にしては綺麗なお辞儀で、……案外にこの女性は育ちが良いのかもしれない、と思った。


 その甘さは――砂漠のような自分の人生では、けっして得られなかったもの。


「顔を上げてください。……誰にでも、そんな、馬鹿丁寧なかかわり方をして」


 もう、言葉が悪くなるのだってかまわない。

 自分の精神状態が既におかしくなりつつあるのは、わかっていた――ヴェールがかかって。靄に包まれて。消える、消える、理性が、冷静さが消えていく。

 じきに自分でも理解できない行動を取る。

 わかっていた。もう。……これまでの、約四半世紀の人生すべてが、限界だった。


「すべての客のことを。そうやって、覚えてるんですか。それで、そうやって、気にかけて」

「そうですね、お客様はみなさん、大事ですから……」

「俺のことも、ですか? 客なんて大勢いるのに?」

「もちろん覚えています。もちろん」

「……記憶力が良いんですね」

「そうでしょうか?」


 皮肉もなにも、通用しない。


「だったら」


 胸がつかえて。

 すぐに、言葉を紡ぎ出せなかった。


「覚えておいて、くれませんかね」


 歯を食いしばって、人間をやってきたけれど。

 もうお終いだ、人間ごっこは、もうお終い。


「俺は峰岸狩理と言います。……人間です」

「あっ、えっと、私は取梨とりなし杏奈あんなと申します!」


 狩理は唇を歪めた。それは彼なりの、ほんものの笑みだった。

 間が抜けている。きっと、そういうところも。……彼女が好きな者ならば、愛らしく映るだろう。


「公園事件って知ってますか」

「あっ、はい。最近よくニュースになっていますよね」

「そうです。その公園事件です。……俺は、今日まで、人間として生きてきたんですよ。ちゃんと。しっかりと。立派に。人間でした」

「……お客様?」

「タルト。……いただいていきますよ」

「あっ」


 彼女が驚くのも構わず、狩理は彼女の手からタルトの箱を奪い取った。

 そして、灰色の世界へ駆け出す。

 傘もささずに、タルトの箱だけを抱いて。行き先も決めず。ただただ繁華街を、上品だけれど地味なオフィスカジュアルの服装で、走って水たまりの水が跳ねて、周囲のひとから眉をひそめられても。


 走る走る。果てへ果てへ。どことも知れない場所へ。


 今晩の、食事にしよう。

 南美川家に帰る気はなかった。

 帰ったところで。もう。……お終いだ。


 あとは、化と真が何かしらのアクションを起こして。倫理監査局につながって。……彼らが自分を人間未満として引き取りに来るのを、待つだけの身。

 最後の晩餐として、きっとスペシャルなイチゴのタルトは相応しい。

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