御伽噺のような

 狩理は、灰色の世界で立ち尽くしていた。

 黒色の傘をさしたまま。

 不審者だと思われるかもしれない――実際、何人かの人が狩理にちらりと目をやって。しかし、そのまま通り過ぎていった。

 その程度でマイナスのサブジェクティブ評価をくだすのも面倒なのだろう。


 もしかしたら狩理はそのまま、ずっと立ち尽くしていたかもしれない。

 身動きもとれないまま。

 固まって。魔法のように。身体全体が、固められて。

 石像のように立ったまま、夜と昼が入れ替わり続けて。信じられないほどの月日が経って。

 ある日急に、双子が来るのだ。笑顔で。それまで連絡ひとつ寄越さなかったのに。そして、笑顔で言うのだ。


 狩理くん。おめでとう。人間未満になれるよ! ――って。


 ……こんな想像こそ。

 ファンタジーだ。ばかみたいな御伽噺だって――知っているのに。


 だけども、魔法はすぐに解ける。

 雨が、またしてもひときわ激しくなって。

 ケーキショップに立つ彼女が、天候を、あるいは誰かを心配するかのように顔を上げて――。


 そうして狩理の顔を見た瞬間、心底驚いたような顔をして、口元に手を当てて。

 すぐに、力が抜けたように、嬉しそうに、可愛らしく笑って。

 そんなちょっとふにゃふにゃの、顔いっぱいの笑顔で、大口を開けて――手を振ってきた。


 目を逸らしたくなる。うつむいて、足早にこの場を立ち去りたくなる。

 いますぐに。

 言葉を叩きつけたくなる。


 人違いだ。なんですか。そんな親しそうな表情を見せて。ひととの、距離感、わかってないんじゃないですか。そう言いたくなる。突き放したくなる。

 ……俺はそんな無垢な笑顔を向けられていい人間じゃない、消えてくれ、やめてくれよと、言いたくなる。


 酷いことを。本心かどうかもわからない。

 本心かもしれない。消えてほしいのも、やめてほしいのも。

 だけども、それは――。


 足元で。

 水の弾ける音が、先に聞こえた。次いで、上質な靴であっても構わず侵食してくる、爪先の水の冷たさ。

 自身が足を踏み出したことを、それで理解した。

 明かりに吸い寄せられる羽虫のようにケーキショップの店頭に向かっていく、自分自身を。狩理は、どこか他人ごとのように、映画の登場人物をスクリーン越しにぼんやり見ているような現実感のなさのなかで、感じていた。


 ふわふわ、ふわふわとしている。


 意志と意識と行動が、一致していない。

 夢を見ているようだった。灰色の世界、靄がかかったような世界――それはもしかしたら、自分の意識に靄がかかっているからなのかもしれない。


 まわりから見れば、たいして変な行動でもないだろう。

 ケーキショップの前まで来て。でも、ケーキを買おうかどうか少し悩んでいて。店頭に近づいてしまうと、買わなければいけないような気がしてしまうし。店員に無駄な期待をさせてしまうのもよろしくないだろうし、もしかすると変なサブジェクティブ評価をされるかもしれないし。そういう諸々が少々プレッシャーだし面倒だし。

 だから、ちょっと離れたところで立ち止まり、考えをまとめていた。


 そんな人間はきっと普通にいる。何もおかしいことではない。仕事帰りに、ふらりとケーキを買いに来た。それだけの余裕のある人間。余暇をケーキで彩る余裕のある人間。

 店員との余計な接触や社会評価に、気を配ることもできて。

 冷静に、理性的に。さまざまな可能性のなかから、ケーキショップから少し離れたところに立つことを選んでいる。


 きっとそんな人間像。

 はたから見た自分と、自分自身の現実は――たぶん、こんなにも、乖離している。


 ケーキショップの店頭まで足を進める時間は、実際にはごくわずかなものだっただろう。数秒間のことだっただろう。


「お客さま。いらしてくださったんですね!」


 だけども、時間があんまりにもゆるやかに感じられて――彼女の笑顔は、永遠のように感じられた。結晶のような。砂糖菓子のような。……ああ今日は御伽噺のような空想ばっかり、夢想ばっかり、甘っちょろくて、……幸奈じゃないんだから、と狩理は思ってまたしても自分に苛ついた。

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