灰色の世界で

 ケーキショップの店員は、彼女は――。

 笑顔で、畳んだ傘を片手に持った背広姿の誰かの接客をしている。


 立ち止まって、駆ければ届く、だけれども歩いても届かない距離感で彼女を見詰める。

 繁華街の道、人通りの邪魔にはならない位置で。人通りが壁となって自分を隠してくれるような位置で。


 夕方の繁華街は、流れるように人々が歩いていく。

 これから灯りをともす店はまだ暗く、だけども開店準備をしている気配がそこかしこに満ちている。昼間から営業している店は、雨で薄暗いせいか照明をつけていて、その照明が繁華街の道をぽつぽつと照らしていた。

 だけども、それらの明かりは、この重たい薄暗さに勝ててはいなかった。


 傘は依然、旧い、旧時代のときのまま。

 黒色のちょっと上質な素材の傘――地味だけども良質な物を持たなければ、南美川家から咎められる、その習慣のすべてが、狩理の持ち物や思考の隅々にまできちんと行き渡っている。

 オールディな傘に。雨が、打ちつけて、不揃いなリズムを刻む。


 曇った世界で、煙った世界で、彼女の笑顔はやはり、どうしてだろう、なぜか、眩しい。

 そんなわけない――とっくにわかっている。御伽噺と現実は異なるのだ。お姫様はキスしても目覚めない。笑顔がきらめくことはない。物理的にありえない、そんなことは、夢なんてなくて、すべては幻想で。


 灰色に滲む雨のヴェールの向こうに。

 遠い昔に馬鹿にして捨てた幻想、その影を、見ているかのようだった。


 背広姿の誰かが、ケーキショップの箱を持って店を後にした。

 最初から、最後まで。徹頭徹尾、彼女は笑顔で接客をしている。

 客を見送る瞬間まで。それどころか。彼の背中が見えなくなって、満足そうにうなずいて、よし、と自分に力を入れるかのようにうつむいた瞬間まで。


 うつむく瞬間は、狩理にとっては表情を消していい瞬間だ。

 わずか一瞬でも。笑顔を、作らなくていい。


 それなのに、ケーキショップの店頭に立つ彼女は、……うつむいたときにまで嬉しそうにはにかんでいる。


 感情表現は労働だ。

 気分を害していないですよ。嬉しく思っていますよ。ありがたく思っていますよ。

 言葉だけでは、伝わらない、伝わったことにはさせてもらえない。だから、表情も言葉と一緒に連動させる。


 どうせ、何をどうしても叶わない双子に見透かされながら。そんなどうしようもない出口のない毎日のなかで、それでも、感情表現に伴って表情を作ることを実質的に強要されている、毎日、毎日毎日毎日毎日。


 マナーとしても、それは必要なことで。

 狩理は他人より――つまり親が犯罪者でない多数よりも、圧倒的に、社会評価に対して脆弱だ。

 他人から嫌われた場合のサブジェクティブ評価、それが、相当に響いてくる。

 国立学府出身で、若くして所長という立場があって。オブジェクティブ評価から考えれば、それなりに――というよりかなり高い評価を得ていたって、結局、……結局、犯罪者の遺伝子を持つ嫌われ者、というだけで、すべてはひっくり返される、……崩壊する。


 いくら、優秀になったところで。

 相殺、とさえ。いかない人生なのだ。


 だから。

 感情の表現をコントロールする。

 すべて、すべて――仕事中も、双子と過ごしているときにも。


 それをしなくていいのは、小さくて狭いアパートの自室、ヤニにまみれた壁にもたれかかって、煙草を吸う深夜の時間くらいで――。

 いや。でも。幸奈に対してだけは――ちらりとそう思って、胸が鷲掴まれたように苦しくなる。


 元婚約者殿に対してだけは、素の表情を見せていたかもしれない。確かに。ちょっと馬鹿にしたり、皮肉を言ったり、面倒だなと思いながらそのまま面倒そうに対応したり、そんなことも、できていたかもしれない。


 ……いまにして思えば、どうして、ああまで気を遣わずに過ごせたのか。

 嫌いだったはずなのに。わがまま放題で。世間知らずのお嬢さまで。……大嫌いで。いなくなってくれと、心底毎日願いながら暮らしていたはずなのに。


 不本意だ。なぜ。今頃になって、こんなに幸奈のことを思い出すのか。

 こんなにも苦しくなるのか。

 嫌いだから、うっとうしくて、面倒だったから。笑顔も作らず、ただただ適当に対応していただけ、ただそれだけのはずなのに。


 ……感情表現は、労働だ。

 幸奈は、労働するコストを費やすほどの価値もなかった人間だということ。

 ただただ、それだけのこと。


 そうだ。……コストをかけるに値する人間と、そうでない人間がいるはずだ。

 自分の場合は、犯罪者の子どもだから。多数に向かって、嫌われないようコストをかけなければならないけれど。


 雨の煙のヴェールの向こう。

 ケーキショップの店員の彼女は、どうして人から見られていないであろうときにさえ笑うのか。


 ペンを手に、メモのようなものを書きつづっているときにさえ、鼻歌を歌うかのように笑顔がこぼれているのか。

 この社会。評価社会。みな、表情筋が疲れ切っているはずだ。他人から評価されるためには、感情さえコントロールして、毎回適切な感情表現をしなければならないのだから。それができないやつが即ち、劣等者として堕ちていくのだから。

 笑顔を無駄に消費する必要なんてない。


 なのに。それなのに。

 彼女は――狩理が見ていることに気づかない、だれにもいま見られていないはずなのに、……ずっと、ずっと嬉しそうに楽しそうに、笑っている。


 ……変わった人間だ。

 コストパフォーマンスが悪くて。

 ただの、社会評価もそんなに得られないはずの、そこまで優秀そうでもない、むしろおしゃべり好きでよく店の人間から怒られるような、どこにでもいそうなケーキショップの店員なのに。


 変わっているね、ただそう断じて吐き捨てて唾棄するように忘れればいいはずの存在が――なぜだろう、こんなにも、悔しいくらいにむかつくくらいに、……眩しくて、灰色の世界で際立って見える。

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