優しい部下
狩理はその後、休憩室に戻った。
休憩室にいた人々は、何も言わずに休憩室を出て行って、休憩時間が過ぎてから戻ってきた狩理に対して、何も尋ねなかった。
それは無関心ではなく、優しさだと狩理にはわかった。
モニターでは、相変わらず公園事件についてのニュースが流れていた。
関係者による記者会見が放送されている。広報担当は、どこかの大学の准教授らしい。
記者会見の質疑応答が終わり、広報担当が言う。
『広報担当の依城寿仁亜と申します。情報提供をお願いします。どんな些細なことでも構いません。お力をお貸しください――』
背景として音楽として、その言葉を声を、聞きながら。
狩理は淡々と、休憩室にいた職員たちと言葉を交わし、私物をまとめて休憩室を後にした。
公園事件の関係者の話に、耳を傾けなければいけない、そんなことはわかっている。
いま、なにが起きているのか。なにが起きようとしているのか。
そして自分は、情報を持っていて。
双子の様子からして――いよいよ自分も動かなければ、危ないかもしれない。
わかってはいたが、それでも、狩理の午後は普段と何ら変わりなかった。
表面的にはいつも通り、淡々と、仕事を進めた。
いっそ、人間未満になってしまったほうが、楽かもしれないとぼんやり思った――諦めがついて。
そして同時に、ぼんやりと、ちょっと話しただけの彼女の笑顔が離れなかった。
『では今度お店に来たときに、イチゴを食べた感想を聞かせていただけませんか?』
『それだけ?』
ケーキショップの店員の、見返りのない、笑顔が優しさが――どうしようもなく、心のどこかに張り付いていた。
張り付いて――うっとうしいほど、離れない、……振り払おうとしても去ってくれない。
夕方から、雨が降り始めた。
昼間は、あんなに、うんざりするほど清々しく晴れていたのに。
高柱第四環境循環研究所の人々は、降ると思ってませんでしたね、と言い合っていた。
今日は、珍しく傘を忘れた。
濡れて帰れば、真が不機嫌になる。汚い、と罵倒される。だから折り畳み傘をいつも通勤用の鞄に入れていたのだが、なぜだか、今日はなかった。
心の底では、本当は、理由なんかわかっている。
自分も双子の事件で疲弊して、とうとう限界が近づいてくる。
頭が疲れるよりも前に――心が、軋み始めている。
双子に噛みつくような真似までして――。
退勤時。
雨の降る、煙ったような灰色の世界。玄関のひさしの下で、ぼんやりと景色を眺めていると。
いつももっとも傍にいてくれている男性の部下が、建物から出てきた。見慣れた白衣ではなく、ラフな私服だ。
もちろん、狩理の方も私服だった。ごくシンプルなセーター。安物というわけではないが、おしゃれをしているわけでもない服装。
お疲れ様です、と向こうから声をかけてきて、ああお疲れ様、と狩理も返す。うまく笑顔が作れているかは、わからなかったけれど、すくなくとも微笑もうと試みたことは事実だ。
「みぞれになりますかね」
「どうだろうね。でも、寒いから、そうなるかもしれないね」
「あれ、所長。傘、お持ちですか?」
部下の手には、黒い傘がある。立派な傘だ。雨に濡れることもないだろう。
「いや。でも、大丈夫だよ。ちょっと走ればすぐに駅に着くから」
「よかったら、これ、使ってください」
部下は傘を差し出してくる。
「いやいや、いいよ、本当に……」
「自分は折り畳み傘も持ってますので、ご心配なく」
部下は、半ば強引に狩理の手に傘を渡した。
困惑しながらも、狩理は、傘のグリップを握る。
彼の手の温度が、まだ残っているような気がする。
狩理は、ここで部下に傘を突き返すことはしない。
その程度には、常識というものが身についていた。骨の髄まで染みつくかのように。
「……じゃあ、借りておこうかな。ありがとう」
「傘って、いつ浮くんですかね?」
「そろそろ浮くんじゃないかな」
「こんなに科学技術が進んだのに。傘ひとつ浮かないなんて、不思議ですよね」
「意外と難しかったんじゃないかな。重力を操作するのが……」
そうかもしれませんね、と部下は白い息を
「雨が降って……明日の朝、水は大丈夫でしょうか。きれいなままでしょうか」
「ちょっとやそっとの雨では、水は濁らないよ。浄水システムも二十四時間、きちんと稼働している」
「そうですよね。わかってはいるんですけど。いつも、細かい化学成分にまで気を配っているもので、雨が混ざるというのが、こう……どれだけ影響があるのか……考えてしまうんですよね」
「職業病だね」
そうですね、と部下は息を
「もうすぐクリスマスですね」
そういえばそうだ、と狩理は思い出した。
近頃、双子は事件にばっかり集中しているが、今年はクリスマスパーティーをするのだろうか。
クリスマスパーティー。嫌な響きだ。クリスマス。非常に憂鬱な季節だ――彼らの、同席しているだけで頭を抱えて叫び出したくなるような、残酷な狂気に満ちたクリスマスパーティー。
「所長は、クリスマスには予定はあるんですか」
「いや……」
ここで、心配させてはいけない。ただでさえ自分のために足を止めてくれて、勤務時間外なのに雑談なんかも交えてくれている、善良な部下を。
……優しい部下だ。自分には、もったいなさすぎるほど。
「……まあ、一応、知り合いとパーティーをするかもしれない」
「そうですか。自分も友人とパーティーをするんですよ。あの、所長も、よかったら……」
部下の声を掻き消すように。
雨の音が、一際大きくなった。
世界すべてに叩きつけられるかのように。
触れれば、貫かれそうなほどの音が――会話の声さえ掻き消されるほど、あたりに強く響く。
都合がいい。なんて都合がいいんだ、と思った――聞こえなかったふりをするのに。
「……あっ、なんだろう。雨が激しくて、聞き取れなかった、すまないね」
「いえ、その……やっぱり、なんでもないです」
まさか、パーティーに誘われるとは。
仕事の付き合いで仲良くすることは、べつに珍しいことではない。
プライベーティなパーティーに行くことだって、なんら変ではないだろう。常識から、そんなに離れたことでもない。
……おおかた。
元気のない自分のことを、心配してくれた、というところだろう。
うっとうしい。うんざりする。わずらわしい。
……なのに。
今すぐ傘を投げ捨ててしまうことができない。
この部下のことを――嫌いになり始めることさえ、できない。
心のぬくもりなんて、不要なものだとわかっているのに。
南美川家で――そのことを、さんざん教え込まれたはずなのに。
どうして、ひとはひとに優しくするのか。
社会評価ポイントという、圧倒的なメリットのためか。あるいは、この超倫理社会に生きる者としても義務感によるものか。
いや。もし。もしも、本当に、見返りなく。そのようなことが――ありえるのならば。
……ケーキショップの店員の笑顔が、またしても、浮かんでくる。
「みぞれになる前に、強く降りましたね」
部下は少し大きな声で言う。
「お呼び止めしてしまって、すみません。お先に失礼します。お気をつけて」
「……ああ」
部下はリュックから素早く折り畳み傘を出して、煙る雨の世界へ、駆けて消えていった。
うるさい、うるさいほどの雨のなか、部下が来る前よりもずっと静けさが響く。
また、ひとりになった。……自分にとっては当たり前の状況のはずなのだけれども。
真冬の雨の夕方は冷える。
冷え切った世界が、しかし、狩理は嫌いではない。その温度は自分の身を切り裂くけれど、自分の心の温度にも似て、まとわりつくものがなくていっそ爽やかだと思う。
生命のぬくもりを、わずらわしさを、一瞬でも忘れさせてくれるような気がする。
それなのに――なぜまた、人のいるところへ行こうとするのか。
このまま、犬小屋のようなアパートに帰ってしまえばいいのに。
駅に行ったら決めればいい。どうせ途中までは、同じルートの電車だ。
どうせ、このまま帰るだろう。ひとりでいればいい。何もしないでじっとしていればいい。
足掻くな。これ以上。狩理はそう自分に言い聞かせる。
だが――結局、狩理が足を向けたのは。
繁華街の、ケーキショップだった。
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