ぐらつく

「……そうかもしれないけど」


 逆に。

 いけるかもしれない、と狩理は思った。

 この全身の熱さと、心の冷たさがあれば。

 いまの自身の頭がまったく正常ではないことは既にわかっていたけれど――だからこそ、言ってしまえる、と思った。


「俺だって、社会のために尽くしてる。これでもそれなりに優秀なんだぜ」

「それも、可愛い。可愛い。可愛い。かわいい、かわいい、かわいい」


 壊れたスピーカーのような化の言葉は、何度聞いても恐ろしい響きだが、狩理にとっては慣れた恐怖でもあった。


「……化くんが、思ってるほど。俺は……社会に貢献してないわけじゃない……」

「遺伝子が……」


 ふと壊れたスピーカーのような喋り方をやめて、吐息のように、化は言う。

 唐突に。相変わらず。……話が通じない。

 化のなかでは何か一貫性があるのかもしれないが、聞いているこちらからすると、ころころと、変わる。


「可愛いん、だから。遺伝子が、可愛い、可愛いんだから、ふふ、ふふふふふ」

「俺の……やっぱり……親父のことを――」

「ちゃんと、みんなのなかでも、可愛く、なるために。いっぱい、いっぱい、いろんなこと。してきたでしょう?」


 全身が、固まる。

 そのことだけは――言われたくなかった。


 ……はるかに広がる草原の記憶。


 思い出したくもない。

 思い出すと死にたくなるから。

 死ぬのでなければ、世界をいますぐ核ミサイルで撃ってしまいたくなるから。


 だが――どうせ死ぬなら。

 最後だけは、彼らに一矢報いてからでも、いいのかもしれない。


「……話を戻すよ。俺は、……この状態が続くなら通報する。化くんたちが、俺の協力が要らないと言うなら、そうするよ」

「狩理くん」


 穏やかに、とてもやさしく、化は言った。


「そのときには。狩理くんも。可愛くなるだけ」

「本当に俺の力は、何も要らないのか」

「狩理くんも、可愛い、可愛い、ね、可愛く、なってきた」

「……なにをしてるんだ、化くんたちは、いま」

「世界が、あたらしく、なるんだよ」

「どういうことだよ――」

「……ふふ」


 静かに、化は笑った。

 なんにも理解できない動物、いや、虫けらを――見下ろすような響きで。


 ……底冷えする温度と、煮え立つような温度が。

 全身をめぐる。どちらも存在している。

 ばくばく音を立てる。混ざって、ぬるま湯には、けっしてなってくれない。

 熱くて、冷たいままだ。ずっと。……ずっとだ。


「俺の力は化くんたちにとって無駄でしかないのかよ。一緒に幸奈を取り戻そうって、ここまで言ってるのに。幸奈を許してやってまで!」

「狩理くんと、姉さんは、おなじ。三匹で、飼ってあげる」


 全身が、凍りついた。

 今度こそ。心まで。


「三匹で。三匹で。飼ってあげる。飼ってあげる、飼ってあげる、飼ってあげる。いいね、それも、いい、ね、楽しみに、なってきたね、ふふ、……ふふふふふ!」

 

 白衣が、風に揺れる。

 耐えきれず――狩理は、両手で頭を抱えた。

 スマホ型デバイスが、浄水場の白みがかったコンクリートの床に、コン、と音を立てて落ちた。


 ……幻想なんか。

 わずかでも、もつべきではなかった。彼らに対して。


 協力するなんて言葉――なんにも、彼らの言葉に響くはずはなかったのに。


『ねえええ、狩理くん、もういい? こんなことで電話してこないで。狩理くんが通報しようがあたしたちに協力しようが、どっちでもいいよ。関係ないから。狩理くんひとりでどうにかなることじゃ、ないし。それより化の貴重な時間を取らないでよお。ほらやっぱり、狩理くんに説明できるような、ことじゃ、なかったから』


 スマホ型デバイスから、真の声が聞こえるが――狩理は、無視した。

 ……あとでひどい目に遭うかもしれない。

 わかっていたが――いまはどうしても、双子と話を続けたくなかった。


「……この期に及んで」


 俺は、幻想を見ていた――視界が滲んで、雨かと思いたくて大げさに視線を移せば、浄水場の水がきらきらきらきらと、青空を映してきらめいていた。


『狩理くん? 切るからね? ――今日はうちに帰ってこないで。狩理くんのくせに。あたしたちに。意見するなんて。信じらんない。ちょっと分を弁えてくれない? ――あたしたちから評価されなくなって人間未満になっちゃったっていいのっ?』


 ふつりと、声が止む。……通話が切られたのだろう。


「……ありがとう、真ちゃん」


 口もとを歪めて。

 せめてもの皮肉を、ユーモアを込めて狩理はつぶやいた――それはもちろん、今日は帰ってこないでと言ったことに対しての言葉だったけれど。

 ほんとうは、このくらいの余裕があるように自分に対して見せかけなければ、自分の足元がくずれて今すぐ浄水場の水に飛び込み入水自殺をしてしまいそうだったから。


 実際、あっというまだろう。

 彼らに評価――スペシャル・サブジェクティブ評価を、貰えなくなったら。むしろマイナスをつけられてしまえば。


 法的な猶予というのも狩理にはほとんど適用されない。

 なぜなら――狩理が、犯罪者の息子だからだ。


 遺伝、というのは学問的に証明されている現象で。

 劣った人間の遺伝子をもつ者が、人間でいられること自体が、特例で――だから、ここで低い社会評価をもらってしまったら、あっというまに、転落だ。


 狩理自身の優秀性と実績とか、気のいい職場の後輩たちの評価、あるいは厳しいけれども狩理をよく理解してくれる本部組織のトップの評価があっても、無理だろう。


 一度でも低い社会評価を取れば、社会からすぐに抹殺される――それが、劣った遺伝子をもった人間の宿命だから。


「なんだ、詰みじゃん」


 意見を言っただけで。

 ……協力しようか、通報も考えていると、伝えただけで。


 どうやら自分は人間でなくなるらしい――とっくの昔にわかっていたはずの事実は、もしかしたら、頭だけの理解だったのかもしれない。


 ……だって。

 こんなにも――足元がぐらつく。視界が、滲んで、雨も降っていないのに、……止んでくれない。

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