担任教師の言葉
しかしそこで気づけなかったから、その後の彼の人生があったのだろう。
未成年とはいえ、立派に人権をもつ若者の自由意志はいかに教師といえども妨げることができない。高校一年生のときに担任は、それでもいちおう春に考え直すようアドバイスしたらしいが、春の耳には届かなかった。
その担任教師が言った言葉の要約が、Necoによって記録されている。分をわきまえて、それなりに生きていくのも悪くない――そう始まる論理は、以下のように続いていく。
この社会では、人権は手厚く保障される。人間でいるべきヒトしか人間でいないのだから、成人の人数も抑えられていて、旧時代のように富の分配がうまくいかないこともなくなった。社会でそれなりの立ち位置にいれば、衣食住は言わずもがな、娯楽だってたくさん用意されている。
オーダーメードの服を注文したりだとか。トラディショナリィなレストランの上質な食事を楽しんだりとか。一軒家を所有したりとか。あるいは、首都のど真ん中のホテルに泊まったりとか、バイクや自転車を買って趣味にしてみるとか、三日三晩遊園地に行ってみるだとか、旧時代では一部の人間しか楽しめなかったと言われる趣味だって、いまなら中流であれば経験できる。それほどに社会は進歩したのだから、と。生産性の上がらない劣等な人間はいなくなり、人間である限りは一定の生産性があるとみなされて、そしてより優秀な人間により多くの富や権利が流れるので彼らはより生産性を上げてくれる――好循環だ。
だからこそ、超優秀者の衣食住や趣味というのは、オーダーメイドやらレストランやら一軒家やらホテルやらバイクやら自転車やら遊園地やら、そんなレベルにはもちろん、もちろん留まらないものだが、贅沢を言ってはならない。彼らは、着実に社会を進歩させてくれているのだ。自分たち中流者は、その恩恵を被り続けている。
人権がある限り、それなりに良い生活を送れることが保障されている。
だから、ほどほどでいい。ほどほどがいいのだ。夢を見る時間なんて無駄で、自分より優秀な人間と並ぼうとするのも無駄で、それはより生産性の高い優秀者たちの世界を乱すことにもなるのだから、やめたほうがいい。
早く分をわきまえたほうがいい。
気持ちは、まあ、わからなくもない。自身も、憧れたことがあった。ずば抜けて、とびきり優秀な、際立った優秀者というものに。
けれどもそれは若いころにかかる麻疹のようなものだ。
早く、治したほうがいい。早ければ早いほど、治りがいい。……逆に、いつまで経っても治らなければ――それは若いころ特有の病気ではなく、本物の、本質的なその人間の病理であると、みなされてしまいうるのだから。
それなりで、生きていくのも、悪くない。
どころか、……とても、いいものかもしれない。
自身もまだ、新任だったらしく、……もしかしたらなにかを諦めて来たのかもしれない高校一年生当時の春の担任教師は、そんな論理で、彼女の話を締めくくっていた。
寿仁亜はデバイスの表面に指と目を滑らせながら、考えるともなしに考えていた。
誠実な教師だと思う。いまどき、ちょっと珍しいくらいの。それとも彼女の若さが、まだ新しい情熱が、無謀な生徒にも真摯にアドバイスをするという選択肢を取らせたのだろうか。
……それもまた、高校生とは違った意味での若さ特有のなにかだったかもしれない。しかし、無謀な高校生にとっては確実に益になるはずのものだった。
だから、普通に考えれば、受け取ればよかったのだ。担任教師の彼女は正しい。それなりで生きていれば、生きるに不自由することはない。しかし、それなりに生きるためには人権が必要だし、そのためにはやはり早期――すくなくとも大きく遅れてはいない成人認定が必要となってくる。
時間は、案外ないのだ。モラトリアムが許されるのは優秀な若者たちだけで、標準あるいはそれ以下の若者たちには、モラトリアムなんて贅沢な時間はないはず。
しかし、春は受け入れられなかったらしい。
春の保護者――咲良と瑠璃は、とりわけの反対はしなかったのだろうか。……咲良は黙っていて、瑠璃は春のしたいようにさせた、それだけかもしれないが。
結果、担任教師の誠実なアドバイスをまったく生かしきれず――春は無謀にも、自身の強い希望を出して、高校二年生に上がるときに研究者志望クラスに入った。
……その後の彼の運命は、子どもでも予測できるものだった。その子どもが、賢さという優秀さをある程度もっていれば、だけれども。
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