イチゴひとつ
――はたしてそんな厚意など、踏みにじられるだけだと知っていたのに。
「信じられない‼ 気持ち悪い‼」
ダイニングテーブルの上、手つかずのショートケーキのとなりに、パックごと出されたイチゴ。
ショートケーキを、出したところまではよかった。今日のショートケーキは、とくべつらしいよ、って。ずいぶん良いイチゴを使ってるんだって、店員さんに変に自慢されて参っちゃったよ、そう言ったあたりまでも、まだ、よかった。
そのあとだった。すべてが、凍ったのは。
透明なパックにはち切れんばかりに詰められた、つやつや輝く新鮮そのもののスペシャルなイチゴを、婚約者は見つけた。
今日も、虫の居所が悪かったのだろう。たぶん。……第三公立公園で蛆虫くんと遊びはじめてから、彼らは、とくに愛しき婚約者どのはたいそう機嫌が悪い。
イチゴ単体で買ってきて、だなんて言ってないというのが彼女の主張で――まあごもっともではあるから狩理は、……いつもの通り、鈍感な狩理くんになって誤魔化すしかない。外面も、胸のうちにいつも僅かには芽生えている違和感も、とっくに死んだはずなのにときどき疼く、ひとりの人間としてのプライドも。
婚約者は、苛立たしげな呻き声を上げながら右手で持ったフォークを振り上げる。パックごと突き刺して、イチゴはあっというまに殺されてゆく。
「ねえなんでイチゴだけ別のパックに入ってるの⁉ ねえなんで、ねえねえなんで⁉ このイチゴはいくらだったわけ⁉ あたし、狩理くんにイチゴを単体で買ってきてって言ったっけねえ、言ってないよねえ⁉ なのになんでイチゴがパックでほらほら透明なパックに入ってさあ一緒に入ってるわけ⁉ あたしこんなの買ってきてって言ってない! 言ってない! 言ってない! 言ってないじゃんっ‼ 狩理くんってさあああうちにお金出してもらってるんだよね、うちが家族四人とも狩理くん評価してあげてるから生きてられるんだよね⁉ 犯罪者の息子のくせにっ、犯罪者の最悪な遺伝子を受け継ぐ最低の存在なくせにっ、だれのおかげで生きていられると思ってるのねえええだれのおかげで生きてられると思ってんのっ‼」
「真ちゃんたちのおかげだよ。ほんとうに、感謝してる」
……言葉も、支離滅裂で、理屈も、理不尽極まりないが、わかっていて狩理は謝る。ごめん、真ちゃん、その通りだ、俺が悪い、俺はほんとうに鈍くさいね、いつも真ちゃんをがっかりさせてばかりでごめんね、次は気をつけるからね……こんな言葉ならばいくらでもいくらでも口から勝手に出てきてくれる。自動再生のように。
もう歪むことも、崩れることも、ひきつることもない笑顔だ。自信がある。慣れたのだ、だから笑える――鈍感な人間として、……たぶんこれからも生きていくことができる。
「わかってんならっ‼ あたしたちの貴重なお金で、勝手なモン買ってこないで⁉ あたしはねえええ今日はイチゴを直接食べる気分じゃなかったのに! なかったのにいい! 狩理くんさえ勝手なことしなければあたしは今日という一日をねおおむね平穏に終われたのよ! 狩理くんのせいだ、いつも、狩理くんのせいだ狩理くんのせいせいせい! もお! もお! もおおおおおおっ‼」
狩理は、婚約者の手によってぐちゃぐちゃに殺されていくスペシャルなイチゴを、他になすすべもなく見つめていた。虚ろな目で、ぼんやりと、口を挟まず、いつも通りに。
ぷっくりと美味しそうだったイチゴたちはかたちを失い、あっというまに特長を失くして、液体と渾然一体となっていく。店員アンの嬉しそうな笑顔が浮かんだ。真っ赤な血を流す心臓にそれは似ていて、狩理はものわかりよく穏やかに微笑みながら、俺の心臓も早く突き破ってくださればよいのにな婚約者どの、と心のなかだけでつぶやいた。台本を、そのまま棒読みするかのように。
婚約者の弟はうっすらとした笑みを浮かべショートケーキを淡々と口に運んでいる。彼はいつも上の層からケーキを食べる。ショートケーキでも、チョコレートケーキでも、モンブランでも、おかまいなしに。ひとを分解しているみたいで美味しい――小学生だったころ彼はそう言っていたが、……いまでも、そうなのだろうか、たぶんそうなんだろうなと、狩理は今更至極どうでもいいようなことを、思った。
彼はいつも、なにも起こっていないかのように振る舞う。
自身のふたごの姉が暴れているのも、狩理が毎回あたられているのも、見えても聞こえてもいないのかもしれない――視力と聴力で捉えてはいるのだろう、狩理のこともどうやら存在として認識はしているみたいだ、でもそれだけだ、背景となんら違いはない、石ころひとつ以上の価値が彼にとってあるのかと考えれば絶望するだけなので、思考を止めてから、もうそういえばどれだけの時が経ったのだろう。
イチゴひとつ、自分は助けられやしない。
つい数十分前、ケーキショップで感じたまぶしさが、あっというまに遠ざかっていった。
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