十日目、某所
見返りなく
――こんなのやめさせなきゃいけないと、何度自分に言ってきただろうか。
そして、そのうちいくらかでも、行動を起こせたことがあっただろうか。
正義感はいつも恐怖に劣る。
そんなのは心が弱いだけだ、ほんとうに間違っていると思えばだれにでも正しく言えるはずだ、などと言えるのはたぶんきちんと人間として尊重され生きてきた者だけで、つねに権利を安全を脅かされてきた身からすれば、恐怖の圧倒的存在が――わかる。
ここ数日の婚約者どのは、ひどく荒れている。
婚約者どのの麗しき弟君は、……そうでもなさそうだが、彼の内面などわからない。異常者の内面など――自身のようなちょっと優秀なだけの人間には想像もつかない。
狩理は今晩もケーキショップに寄っていた。さすがに毎日毎日私用で早退はできない。今日は定時で上がってから来た、電車に乗って繁華街に着いたら時刻は夜の六時近く。
人々の歩く音は、リズムが違うのに整然と整っている。もうすぐ暮れ切る、水色と紅色の混ざった宵の空。
都市は静かだ。人々はどこかに向かうことで精いっぱいで、言葉を交わしあうひとはほとんどいない。たまに親しそうな人間たちがいれば、彼らは大声で話し笑いあうのではなく内緒話のように声を潜める。
みな自分自身と、もしいれば大事なひとの人権を守るだけで精いっぱいで、ましてや倫理的に外れた行動などしようものなら人生が詰む。だから、都市は静かになった。羽目を外す人間も、大声で笑い合い進む人間も、ほとんどいなくなった。そういうプライベーティなやりとりは、家のなかか、アングラな地下へと消えた歓楽街でおこなわれる。
いま狩理が仮に転べば周りのひとは一斉に助けにかかるだろう――自身の倫理性を、有用性を、ひいては優秀性を主張するのにぴったりの機会だから。
ひとを本気で助けるひとなどこの世のなかにはすでにいないと、狩理は思っていた。
ご立腹な婚約者のために、今日もショートケーキを買って帰る。
ケーキショップでは、アンという名前の店員が今日も接客していた。狩理のことをやっぱり覚えていて、無駄なおしゃべりばかり繰り返して、裏にいるおばさんに怒られて、ごめんなさあいと言って、それでも笑顔を崩さずユーモアに満ちている。
今日はスペシャルなイチゴが入荷したそうで、本日限定、スペシャルイチゴショートケーキをすすめられた。
……純粋な子だ。
いまどきの世のなかには向いていないほど。
店内はいまでもしぶとく生き残っているラジオ放送が流れていた。いまどき、店内でラジオを流すなんて、ずいぶんとオールディだ。裏にいるおばさんの趣味だろうか。
「あ、そうだ、お客さま。昨日も今日も来てくださったので、これ、プレゼントです。……ちょっとお高めなので、ないしょですよ?」
彼女が店のロゴの入った袋ごと渡してきたのは、……ぷっくりとして、つやつやとした、新鮮そのもののいちご。
見るだけで、良いものだと伝わってくる。
「今日はすごく、すーごく良いイチゴが入って。それで、あのっ、私のアイデアでスペシャルイチゴショートケーキを売ってみたんですけどね。これが、意外と売れて売れて! ……だからちょっとうるさいこと言われないんですよ、今日は」
じろり、とおばさんが店員アンを見た。わかってるよ、とでも言わんばかりに。はいはい、と彼女は呆れたように笑う。
お互いに尊重しあうべきとされるいまどきらしいやりとりではないのに、なぜか、ふたりの親しさや信頼感が伝わってくる。
「……いいんですかね。そんな良いイチゴを、いただいてしまって。市場価値が高いイチゴだったら、単体でも売れるんじゃないですか。もっと良いスイーツも作れるんじゃないですか」
「うーん、かもしれないですっ。でも、せっかくのイチゴだから……」
彼女は、どう説明したものか困っているかのように、笑った。
「食べてほしいなって、思って。……ほんとうにすっごく甘くて美味しいんですよ? ショートケーキに載ってるぶんだと、足りなくなるかなって思って」
「ちょっとちょっと、いやだな」
狩理は社会的な愛想を見せる。
「そんなに良いモノ。あとで、代金を請求されたりなんかしないよね?」
「いやいやっ、そんなっ、とんでもないですっ。無料ですよっ。私が差し上げたくてあげてるんですから!」
……それは。
この社会ではむしろ、悪徳とされること。
一貫していない。市場価値を理解していない、あるいは理解していても無視している。
ひとびとには原則、平等な値段で商品を提供するべきで、期限が近かったりジャンク品だったりする場合を除いて、安く、あるいは無償で提供するべきではない。
友達ではないのだ。商売相手は。恣意的に、無償の提供など、もってのほか。
わかっている。
……わかっているのに。
「あとでなにか見返りを求められるんじゃないかい?」
「うーん、そうですね……」
彼女は茶目っ気たっぷりに、なにか考え込む顔をした。
「では今度お店に来たときに、イチゴを食べた感想を聞かせていただけませんか?」
「それだけ?」
「はい」
「……ほんとに、それだけね」
偽りではない――理解したからこそ、……手にしたイチゴの袋の重みが、増した気がした。
「そう……じゃあ、もらおうかな。ありがとう」
狩理は、イチゴを突き返せなかった。
この娘は、いまどきロボットにやってもらってもいいはずの仕事を自らすすんで勤めて、ちょっと顔を覚えた相手に無償で商品の一部を提供してしまうような、……あまり優秀ではない人間だ、つきあっていたって、笑顔を見せたってなんら得はない。
わかっているのに、狩理は、彼女の一方的な優しさを拒めなかった。
……経験が、なさすぎて。
見返りもなにもなく、純粋な気持ちで、なにかをもらったことなんて――これまでの人生では、なかったから。
ほかの店のカウンターに立つのはロボットばかりで、彼らも愛想はいいはずなのに、この繁華街で――変わり者の彼女の笑顔ばかりが、眩しく見える錯覚に駆られる。……ばかばかしいと、頭でいくら否定しても。
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