十日目、公園

心の麻酔があればよかった

 ――思えばなぜずっと地獄に生きているのだろう。



 高校一年生まで、僕は普通の人間だと。すくなくとも自分では、そのように思い込んでいた気がする。それが、あまりに独りよがりで間違っていたとわかるのは――南美川さん。そう。南美川さんと、出会ってからだ。……自分は人間であると、調子に乗っていた。


 あまりにも傲慢な勘違いを、南美川さんが正してくれた。感謝してる、ああ、とても感謝している……毎度、毎度感謝の言葉も強要されて、やっぱりあのころも服を剥かれて土下座も靴を舐めるのも強要されて、僕は僕の立場をわかることができて、ほんとうに、感謝しているんだよ南美川さん。



 地獄に、ある日突然やってきたわけではないのだろう。ほんとうは。

 感覚としてはそうであっても、実際には――まるでまともな、普通の人間の世界のように覆いかぶさっていたヴェールを、南美川さんが剥がしてくれただけだ。……いちど剥がれたヴェールは、もう二度と戻らない。

 僕はまともな人間なんだと――夢想することを、ゆるさない。



 ……いや。もしかしたら、近頃はまた勘違いしていたのかもしれない。

 大学を卒業して。就職して。プログラマーとして、社会人になって……。


 内面はどうであろうとすくなくとも僕は人間のかたちをしていると、そう思えていたのだけれども、ほんとうはそれ自体が、……僕などにはゆるされない傲慢だったのかもしれないな。



 そうであれば、ある意味では納得がいく。

 今回やってきた地獄らしい地獄は、僕に必要な、ある意味正しきものなのかもしれない、と。


 またしても、自分の人生にヴェールを被せようとしていた。そんな僕への、天罰なんじゃないかって、……そう思ったほうが、よっぽど楽だ。



 水晶と化した異常な地面に両手を突いて、僕はいま土下座をしている、……というかもちろんさせられている。

 僕のまわりには、取り囲むように、ひとびと。……360度、逃げ場も、……隠れる場所も――ない。


 手のひらに、膝頭に、氷そのもののような冷たさが襲いくる。

 身体が焼き切れそうなほど寒いが、全身の震えを奥歯の噛み締めに変えて、耐えるしかない。……このまま自身の身体が凍り付いてしまったほうがいっそ楽なのではないか、もちろん、南美川さんを残してそんなことは――できないけれども。


 裸だから、背中や、……下半身がなおさら気になる。露出させられているのだから。ひとに見せてはならないはずの身体を。南美川さんに、気持ち悪いと言われつづけたし、実際気持ち悪さしかないであろういつも隠しているグロテスクな僕の、……からだを、だれにも見せるはずもなかったからだを、いますぐ虹のかかりそうな偽りの晴天のもとに。


 僕は土下座をするしかできない。


「……やあね、ほんと、恥ずかしいとこばっか晒して」

「見て? あそこ、ほら、あそこ。ぷるぷる震えて。もう身体が限界なのかな?」

「いいや、罪人のことだから見られて喜んでいる可能性も高い」

「あはははっ、やあだ、なにそれえ!」

「さすがは罪人、変態極まってるな!」


 ……僕は土下座をするしかできない。


「恥ずかしくないのかしら?」

「牧場で見たオス牛みたい!」

「まあ、罪人にはお似合いだけどな」

「自分で見てほしくて見てるんだもんね。

「うわ、最悪ですね」


 泣きたくなる――泣くことさえ、いまの僕にはきっとゆるされていない。泣いたらおもちゃになるだけで。それだけならまだいい。

 怒られるに決まっている。僕はありがたくもご指導を受けている立場なのだ――改心、するために。みんなに迷惑とお手数ばかりをおかけして。

 とても、とってもありがたいことをしていただいているのに――泣いたりなどしたら、きっとまた蹴られてしまう、罵られてしまう、もっと酷いことをされてしまう。


 一瞬だけ、目をつむった。……それだけが僕にゆるされる人間らしさだった。

 頬に、つめたい風を感じる。ほんの一瞬だけ。

 でも、すぐに目を開けて。口もひらく――。


「……はい。みなさま僕の、……恥ずかしいところを見ていただけて、嬉しいです、とても嬉しいです。ありがとうございます。……ありがとうございます。……反省してます……罪を犯してしまったことを……とても……とても……。だから……もっと見ていただければ、ありがたいです、見て……ください……」


 僕は、すべての尊厳を放棄して――両手は地面に突いたまま、腰を持ち上げた。四つん這いの獣のように。

 どこが人々に見られるかなんて、もちろんわかっている。

 嘲笑が、空気の冷たく澄んだ世界に響きわたった。


 

 これが。

 この世界の道理なのだと。……僕はすでに、理解しつつある。



 懇願する口だけは、塞がれたくなかった。だから笑っていただきたいのだ。楽しんでも、いただかなくてはならない。



 僕の口から発せられる言葉がどこまでも滑稽で笑えて惨めで――ずっとおまえは言葉で誠心誠意謝罪しろ、と。……そうなればすくなくとも、口を塞がれることはないのだから。



 示すのだ。反省を。誠意を。

 ……口枷を嵌められることだけは、避けなければならない。



 昼も夜も、うーうー、としか言えなければ――僕はこのまま、……終わるだけ。



 だから。楽しませなくてはならない。

 ……自分が人間であることなんか、わすれて。



 そもそも僕は――人間に値しなかったのだから。

 だから、いいだろう? こんなの、僕。


 いまさら恥ずかしく思う必要も情けなくなる必要も、……死にたくなる必要だって、ないんだ、人間未満だったら当然――たとえばオス牛になどさせられたらこうやって、服従と嘲笑にまみれた日々を送るはずなのだから。


 だから、だから、もう痛まないでほしい――自身の心。

 叫び出したくなるのを……止めてほしい。


 切実に思う。

 心にも、すぐに使える麻酔があればよかったのに。そうすればこの痛みも……きれいさっぱり、感じなくなって……楽になって……この腰を、もっと振り上げることだって簡単にできるのに。

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