春の目的、寿仁亜たちの目的
「だからこそ、私と、冴木教授がいれば足りた」
寧寧々はゆっくりと、冴木銀次郎教授に視線を向ける。
「冴木教授、あなたは春に信頼されているんだな。……四日後、帰るためにはあなたがいてさえくれればよいと。そこまで信頼される師匠というのは、私などにとっては、うらやましい限りだよ。ネネさん目上の人間にはあまり恵まれなかったから」
どうでもいいようなことを言って、寧寧々は肩をすくめる。隣で、可那利亜がふふっと笑いを堪えていた。
「四日後に帰るだと――?」
冴木教授は鋭い視線を寧寧々に向けるが、寧寧々はどこ吹く風だった。
「私は、彼が来られない事情をリアルタイムで証明するために私を呼ばれたのだろう。……まあ毎日報告に来いと指示していたからさ、グレーではあるんだけど。欠勤の説明するみたいなもんだよな、怠惰で来られなかったのと、やむを得ず来られなかったのとは印象も違うから。私を呼んだのは、彼なりのこれはまあ、欠勤説明書といったところかな」
「失礼ながら……前もお聞きしましたが寧寧々さん、彼とあなたの間にはいったいなんの関係が……」
「だから、それは言えない。プライバシーだからな」
プライバシー、と言われてしまえばそれ以上の説明の強要はできない。
……だが。
「四日後――なんですか?」
「ああ」
「それは、つまり、どういう――」
「四日後じゃないと私との約束の意味がなくなるからね」
「それをもっと――」
「寿仁亜くん、無理よ」
可那利亜が、気がついたら深く苦笑していた。
「残念だけれど、教えてあげられないの。……四日後には帰ってくるだろう、って伝えるだけで、グレーなの。わかってくださらない? あなたほど聡明なひとであれば――」
……寿仁亜は、嘆息を抑えた。
そうだ。プライバシー。それはたとえば安全性や尊厳とおなじで、尊重されるべき人権のいち要素だ。……これ以上根掘り葉掘り尋ねるのは、現代のあるべき倫理観、その水準に抵触する可能性が充分にあった。
わかる。わかるけども――。
「彼は、かならず帰ってくる。すくなくともそのつもりでいるんだろうよ。……そのために必要なのは、本当は冴木教授と私だけだったんだ。失礼だけどさ、あとのひとたちは正直、春の目的とは関係なくって、こっちの都合だと思うよ」
「……逆探知をして、虚無の解明、座標軸の解明をする人材は、事件の解決にあたり不必要だったと?」
「そういうことじゃないってば」
寧寧々は少し苛立たしげな様子を見せて、貧乏ゆすりのように数回、膝をゆすった。
「いまあなたも言ってただろう、若き依城寿仁亜くん。公園事件の解決にあたっては、必要だろうと思うよ、寿仁亜たちも可那利亜の呼んだ麗しき若者たちも。でもさ、それはたぶん春の望んだことじゃないんだってば、春の望みとはまた別問題なんだってば」
「別問題って、そんな――」
「そもそも春は優秀者でもなんでもなさそうじゃないか、ごく普通の一般市民だ。……寿仁亜のような高い倫理観を期待するほうが、無茶じゃないかい。まあ、わかるけどね。極めて優秀な人間というのは、高い倫理観をもっているか、倫理観などそもそも欠如しているかのどっちかだ……まあ春は優秀ではないが、倫理観がちょっとずれているのかもな」
まあ、つまりさ、と寧寧々はコーヒーカップをテーブルに置いて、この部屋にいる全員を順番に見渡しながら、こう言った。
「冴木教授と私以外の諸君らは、全員、公園事件解決のための人材だよ。それは大変けっこうなことだ。ネネさんも、事件を解決しないよりしたほうがいいと思う、……やっぱり人が死んだりするのってあんまり気持ちよくはないしさ。けど」
一度言葉を区切って、すぐに寧寧々は続ける。
「春の意図は、そこにはないんだ。春はたぶんだけど、犯人の特定も理論の解明も、公園内部の映像化さえ要らない……冴木教授に送ったプログラムを実行してもらい、私が彼の事情を知る。それだけを望んでいたんじゃないかい――実際、彼がコンタクトを取ったのは冴木教授のみ。呼んでほしいと言ったのも、私だけだ」
それは、たしかに――そうだけれども。
「……でも公園事件解決のためには、みなさんのお力がもちろん必要だわね」
可那利亜の言葉に、それはもちろん、と隣で寧寧々はうなずいていた。
呑み込みがたくはあったが――しかし。
……しかし。
「……まあ、たしかに来栖が他人を気にするようには思えねえよな」
春を直接知らない、たとえばジェシカなどは首をかしげていたが。
冴木教授の言葉に、寿仁亜は同意だった。彼は、……あまりの視野の狭さゆえに、ほかなど見えるはずがない、と。当時の分析と。いまも、奇妙に一致したから――。
「……わかりました。近頃の来栖くんをよく知る寧寧々さんのお言葉です、……彼は自分のために、動いているのかもしれません」
公園事件を、解決するためではなく。
……だったら。
「僕たちが事件を解決しましょう」
来栖春の個人的な倫理観など知らないし、自分だってそこまで倫理的な人間であるとも正直思っていなかった、ただ、……現代社会に生きるひとりのメンバーとして、すでに大きな犠牲が出て、これからも犠牲が出そうな事件を放っておくわけにはならない。
倫理観のいきすぎた時代だ、と。いよいよディストピアだと、この世界を評する者も少なからずいると寿仁亜は承知していたが――そんな世界で生まれ育った寿仁亜は、もはや、自分でも驚くほどに当たり前に、……人権をもつ他人を助けることを、欲していた。
それがたとえば、いにしえの賢王のように偉大なる志によるものなのか、そうではなく、いにしえの愚かな王のようにただの欲望なのかまでは――自分では、判別がつかなかったけれども。
けれど言う。だからこそ、寿仁亜は王のように言う。
「彼には、彼の目的を――果たしてもらえればよろしい」
そして寿仁亜は、あらためて確認した。
四日後に春は戻ってくるつもりでいるのだろうと。
それは、理由こそ言えないものの、……なにか確実な根拠によるものなんだろうと。
ああ、と寧寧々は簡潔に、それでいてきっぱりと肯定した。
「だって、期限は十四日目だからな――」
それがなにを意味するのか、……相変わらず、わからなかったけれど。
対策本部は、動きを止めない。
春の目的が、たとえ自身のなにかであったとしても――冴木教授を筆頭とした対策本部は、公園事件の円満な解決を、……想像できなくとも、目指す。
プログラムをチェックし、ありうる可能性を考え、公園事件内部で人工知能が働かなくなった理由を考え対策を練り、他分野の専門家たちには引き続き状況の分析を任せる。
寿仁亜の耳もとでは話しながらもずっと、南美川化と真の動向が聞こえてくる。……録音もしているから問題ないが、流すだけ流しておく、正直なところ――聞いているだけで気の滅入るような会話ばかり、双子はしているようだったが。
南美川具里夢と叉里奈の動向は、Grim圏に入ったまま詳細不明となって追えなくなってしまった。こちらも、リアルタイムで追っていく。
そして、映像は――相変わらず、惨めな彼を映し出し続ける。
……どうも、なにか目的のあるらしい、けれど傍目にはまったくそうは見えない――彼を。
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