十日目、対策本部
深い疲労感と諦念
――そして春は、服を剥かれたまま、ゆっくりと、妙にきれいに地に頭と手をついた。それは、およそ完璧に近い土下座だった……慣れているのだろうと、思わせるほど。
冴木銀次郎教授の研究室のスクリーンで映し出される映像は、彼の技術のおかげで、たいそうクリアだった。細かいところまで、逃さなかった、……春の肌の、傷つけられて荒れているところまでも。
途中、てるるは顔をそむけていた。嫌悪感ではないだろう。まだそれなりに若くまっすぐな女性でもある彼女は、その隠すところのない肌色と普通であればありえない土下座の状態を見ているのが、礼を失すると判断したのだろう。実際、そのあと理も顔をそむけ、やがては可那利亜もうつむくように視線を逸らした。
たしかに、ほんとうであれば見てられないほどの……すくなくとも、見たくはないたぐいの、光景だった。ショッキング、という言葉がもっとも適切だろうが――言葉ひとつに還元できないほどの、それは重さと激しさと昏さを、もっていた。
「……人権侵害ですよ」
言いたいこと、言わなくてはならないことはたくさんあるはずなのに、だれもが言葉を発せなかったなか。
寿仁亜は、それだけ言うのが精いっぱいだった。ほかのメンバーたちも多かれ少なかれ顔色が悪く、動揺している――この社会ではありえないはずのことが、起こっている。
それは人間に対する人権侵害。
春は、言わずもがな人権を充分に認められている人間のはずだ。飛び抜けて優秀というわけではないようだが、かといって劣等でもない。冴木教授の推薦したベンチャー企業への就職と、コミュニケーション能力以外はおおむね問題ないという勤務実績。若さを鑑みれば、今後優秀者コースに乗ることも充分ありうるキャリアを形成している、どちらかと言えば期待に足るたぐいの若者だ。
そんな彼に対して、言語道断、論外の人権侵害が行われている――そして交わされているやり取りも、はっきり言って意味が不明だ。
みそぎ? 罪? サクリィゲーム?
なんの話だ。
まるでしぶとく生き残っている、時代の遺物の宗教みたいなことを言う。
だが。意味不明な言葉や概念を、……除けば。
文脈上――公園の内部にいるひとびとの多くが、なんらかのかたちで、……犠牲になったらしいと明らかだった。
そして――なぜだかわからないがその代償のように、……春が、理不尽で屈辱的な要求を一方的に呑まされていることも。
……いますぐ、話し合いをしなければならない。
対策を練らなければならない。
犠牲者の数は……犠牲者と思われるひとびとの名前は……。
いますぐに動き出さなければならないと。
みな、わかっているだろうに。
寿仁亜だって重々、わかっているのに。
みな、それぞれに深く混乱しているのだろう――状況と、それに対してあるべき言葉と比較してあまりにも濃い沈黙が逆説的に、各人の内面を、饒舌に語っていた。
「俺ぁな……土下座なんざさせるために、あいつを無理やり卒業させたんじゃねえんだよ……」
冴木教授が、低く這った、いまにも怒りで震えそうな声で言った。
「あいつ……なにしてんだよ。易々と、言うこと聞きやがって」
冴木教授は……悔しがっている。
寿仁亜には、そのことが、よくわかった。
しかし冴木教授も本当はわかっているのだろう。
春ならば、従ってしまう、と。
……冴木教授の、Necoプログラミング入門の無茶をすべて受け入れた彼ならば。
なにを言われたとしても。なにをされたとしても。
そのまま――受け入れてしまっても、ふしぎではない。
彼が、新時代情報大学の学生だったころから。
なにかあるとは思っていたが――こんなにも、失礼だが率直に言って、……あわれだとは。
ただただ、言われるがままに土下座を乞うなど寿仁亜であったらその場で死ぬほうが遥かにマシな選択肢を、見た目にはほとんど逡巡もせずに取って――他人に晒すはずもない裸体を衆目に晒して、……従っている。
拒絶もしない。抵抗もしない。
尊厳というものは、プライドというものは――ひとのもつべき当たり前のものは、彼には、いったいないのだろうか?
「……状況の分析が更に必要ですが、来栖くんは、……いったいどうするつもりなのでしょうか?」
だから、寿仁亜の声は暗く、……どこか春を責めるように響いた。
ぴっかりと輝かしい様子ばかりいつも見せている彼としては――すさまじく、珍しく。
どうにもしようがない――わけがわからないが、ともかく、状況は良くはない。……犠牲者もすでに出てしまっていたらしい。頼みの綱だった春は、冴木教授の技術を結集させてようやく、本当にようやく映像をつなぐことができたのに、けっきょく、ただあわれに土下座をしているだけだとは。
深い疲労感と諦念が――この場を、色濃く包みつつあった。
それは。研究室の色彩を。くすませるほどの、ものだった。
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