巻き込まれかけて

 ふう、と寿仁亜は深く息をついた。

 他者がそばにいるときに、社会的振る舞いのひとつとしてならともかく、自分のために息をつくことなどほとんどないというのに――いつぶりか。最後はたしか、博士課程時代にどうしても論文がうまくいかなくて銀次郎に泣きごとを漏らしてしまったときではなかっただろうか。

 つまりそれほど、他人の前で自分のために息をつくというのは寿仁亜にとっては異常事態だった――それほどの、ことだったのだ。

 今回の、……自分自身の頭のなかの混乱は。


「たしかに……そうですね……もちろん、Grimによるテロの可能性は捨てきれませんが……」


 捨てきれない。

 ゼロではない、というだけでも大層気になる可能性だ、それは。だってGrimによるテロだ――それはもうほんとうにほんとうに大きな問題で、人工知能分野の専門家たちが絶対に、対処しなければならないことだ。

 可能性、を考えるだけだって――こんなにも胸がざわざわして、普段はクリアな思考を最高速度で回したって、混乱する。


「でも……そうですね、たしかに……」


 でも。そうだ。たしかに。

 まだ、わかっている客観的情報としては――公園事件の犯人の可能性がある大学生の両親が、個人データを誤魔化しているGrim圏の出身かもしれない、ということだけ。

 これだけで――テロである、とよくよく考えれば断定することは、難しい。



 Grimは比較的大規模で力を持つ人工知能なのに、共通人工知能ではない。それゆえ、共通人工知能圏の人工知能専門家たちはみな多かれ少なかれGrimを危険視している。

 もっともGrimを危険視しているのはAinだが、同時にAinはGrimに関する知識や知恵、対策を多く知っていて、一方そのAinとあまり仲のよろしくないNecoはだからこそ――また独自の立場で、Grimの問題を危険視している。

 Ainとの関係が緊張状態になると、Grimの問題もついて回ってくるのだ。


 Neco専門家たちは多かれ少なかれ頭のどこかでつねに考えている。Grimの危険性を、敵対する可能性を、……いずれは、Ainに等しく、いやそれ以上にGrimについての情報を手に入れ解析して自分たちのものにすることを。


 だからこそ、Neco専門家たちは今回、超優秀な若手准教授である依城寿仁亜が「公園事件はGrimによるテロの可能性がある」と言えば、そうだそうだと言うだろう――ほんとうに心の底からそうだ、と思う者も少なくないだろうが、もしかしたら多少頭の隅に、ほんとうにそうなのか、と疑問が浮かんだところで、そんな疑問どこかに飛ばしてしまってGrimを本腰入れて研究してみたい、と思うNeco専門家だって少なくないだろう。

 平常時にはGrimの研究はなかなかがっつりと取り組みづらい――危ない、と倫理監査局から突っ込まれてしまうのだ。

 しかし今回は公園事件という、立派に人権をもった、けっして危険に晒されてはならないはずの人間たちの命がかかっている。

 倫理監査局も、しぶしぶながら許可を出すのは明らかだ。そうなれば手つかずだったGrimについての研究もおこなえる。みな見た目には公園事件で犠牲になりうる尊い人命を守るため、そしてそのなかの少なくない者たちがみずからの抑えられない抗えない知的好奇心を満たすため内心では喜々として、必死にGrimの研究に取り組むだろう――きっとさまざまなことがわかる。Grim言語……Grim言語によるプログラミングとその可能性……Neco言語との相性……GrimにあってNecoにはないもの、そして、取り入れられるもの……。



 ……なんとこれは、おもしろく、そしておそろしい。

 虚無に囚われた物理学の専門家たちと、座標軸に囚われた数学の専門家たちと――なるほど事情はまったくもってして変わらない。

 ただその言葉をそれぞれ、Grimに囚われたNeco専門家と入れ替えるだけで、意味は成立する。



「たしかに――人工知能専門家たちの目をGrimに向けさせ、人工知能専門家たちの戦力を削ぐことこそが、犯人の……犯人たちの、狙いかもしれませんよね」

「物理学も数学も封じて、人工知能だけ封じないというのもあまり考えられないしね」


 可那利亜はスマホ型デバイスをテーブルの上に置きながら、笑う。


「こういうときには、ほら、あれだよ、亀の甲より年の功ってな」

「ネネって意外とオールディな言葉が好きよねえ」

「亀は生物だろう? 生物学をやっている身からすると、オールディな言葉でも生物に関するものなら覚えられるんだよな、これが。猿も木から落ちるとか、水を得た魚とか」

「やあだ、なにそれえ、ほんとむかしのひとみたい」



 ふたりが雑談をしてくれて、それはもしかしたら気遣いかもしれなくて――ふうっと寿仁亜は息をつき、自身の頬を、両手でばちんと叩いた。自分のためだけに。

 気合を入れ直す――いま自分が相手にしている犯人たちは、一筋縄ではいかない。自分がいちばん、いや、自分だけが犯人たちの動機に犯人に注目していると思っていたのに――自分がこんなにあっけなく、おそらくは犯人たちの狙いに巻き込まれている。



 慢心こそ敵だ、と久方ぶりに自分に言い聞かせて、その言葉が久方ぶりになること自体が慢心だった、敵だった、と、寿仁亜は、……自分らしく思い直すのだった。

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