カフェオレ

 寿仁亜は、自分を落ち着けて。もう大丈夫、という気持ちになってから――。


「……すみません、寧寧々さん、可那利亜さん、ありがとうございます。ちょっと混乱していたようでした……判断を誤るところでした」


 きちっと、頭を下げた。


「いいのよお、そんな」

「頭なんて下げないでくれ。むずがゆくなる」

「……はい」


 恥ずかしさと申し訳なさももちろんあるが、それよりも尊敬と親しみの増した心で――寿仁亜は、顔を上げた。

 ……自分にとって、冴木教授がもっとも尊敬できる師匠であることは今後ともずっと変わらないだろうが。若いころから聡かった自分にとって、なかなか尊敬できる、目上と思える相手に出会えるというのも、貴重だった。それでも、若いころはそういう相手にも出会えたが……最近の寿仁亜は異例の若さで准教授を務めていることもあり、ひとの下よりはずっと、ひとの上に立つようになっていた。

 だから、もうなかなか尊敬できる目上の相手になど簡単に出会えないのだろうと思っていたのも、いまにして思えばたしかだ。


 もちろん、簡単に出会えないのはやはりたしかで――だからこそ、今回の事件が異なる分野の専門家たちを引き合わせ、思いがけず新たに尊敬できる目上の人間を得られたというのは、そういう意味で不幸中の幸いだったのかもしれない。


「みなさま、お飲み物でもいかがですかー」


 素子がさりげなく、ほんとうに気がつかないほどさりげなくやってきて、寧寧々の前にはブラックコーヒーを、可那利亜の前にはルイボスティーを、寿仁亜の前には――湯気の立つカフェオレを淹れてくれる。


「あらあ、ルイボスティー、あたし大好きなの!」

「ああ、すまないな」

「……ありがとうございます。素子さん」


 寿仁亜はもう、あまりカフェオレを飲まなくなった。もっとずっと若いころは頑張りたいときによく飲んでいたが、博士課程に上がる二十五歳ごろにやめた。糖分と脂肪分が多すぎて、健康のためによろしくないと判断したのだ。

 それからは、飲むにしろブラックコーヒーを選択するようにしている。基本的には。


 素子の淹れてくれたカフェオレを飲むと、砂糖とミルクがたっぷりで、糖分と脂肪分そのものの味がした。……いまでも寿仁亜は、ほんとうの意味で自分を落ち着けたいときにカフェオレを飲むようにしている。


 ほんとうに、ありがとうございます、と感謝を伝えようとしたが――素子はすでに微笑みとともに一礼して去っていくところで、……やはり素子さんにもかなわない、と思いながら寿仁亜はもうふたくちみくち、カフェオレを飲んだ。

 素子もまた寿仁亜にとって貴重な、尊敬できる目上の人間であることは――間違いなかった。



 ……危うく、やられるところだった。

 もう、物理学の専門家たちも数学の専門家も、万一にでも笑えない。

 なまじ専門性があるからこそ――その危険性や可能性を、十二分に承知しているからこそ、のめり込んでしまうのだ。

 きっと虚無の問題である座標軸の問題であるGrimの問題である、と――。



 ……しかし。

 犯人たちがもしかして、いや、――もしかしてではなくほとんど確実なことであろうが、そこまで考えているのならば。

 各分野の専門家たちがなにに興味を持っていて、どういう物事であれば少々の疑問や納得できなさをどこかに飛ばしてでも取り組みたいと思うほど知的好奇心を持つのか、すべて把握したうえで予想したうえで、たとえば今回の人工知能専門家にとってのGrimのように、絶妙にピンポイントなものごとを――それも、複数分野、狙い撃ちしてくるのならば。



 ……ちょっと、そろそろ、想像のつかない人物像になってくる。

 寿仁亜は自身が、相当の視野の広さを持っている自負があった。自分の専門以外の話題も、ついていけるのだ、と。



 しかし――上には上がいる可能性を、……認めなくてはならないかもしれない。



 つねにあらゆる場所でその場のトップとして、微笑みとともに他者に完璧な気遣いを見せ社会的に振る舞えるほどの余裕をもってきた寿仁亜にとって、それは久方ぶり――いやもしかしたら人生ではじめての経験で、……敗者を、これからは笑えないな、自分ばかりにいつも王冠がくると思ってはいけないなと――カフェオレの甘みともったりしたコクとともに、苦みと自分の未熟さをそのまま、飲み干した。……飲みくだせなかったとしても、飲み干してやるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る