七日目、昼間、某所

果ての見えない虚無の道のりのように

『もう、最悪! 狩理くん、ケーキ買ってきてよね!? ブランドのやつ!』


 昼休みの終わる一分前。バイブの振動で震えたスマホ型デバイスを、見たくもないのに、でも反射でびくつくようにすぐに開いて。婚約者から入っていたメッセージを見て、狩理は深く、深くため息を吐いた。


 幸い、高柱第四環境循環研究所の控え室にはいまはもうだれもいない。各々、持ち場に向かっていったのだ。本当は引き留めねばいけない。休み時間はすべてプライベーティに使ってもらわねばならない。そうでなければ、倫理的違反だ――働かなくてもいい時間、働かせていることになる。高柱第四環境循環研究所に問題はいまのところ少ないが、数少ない問題点のうちのひとつだと言えるだろう。

 しかし、たとえばトイレに寄ってから持ち場に戻りたいという職員を無理やりぎりぎりの時間まで控え室に引き留めることもできない。持ち場に戻ると言いながら、途中でだれかプライベーティな相手と通話でもしているのかもしれない。それこそ、各々の自由だ。

 だからこそ狩理は、というよりは高柱第四環境循環研究所の峰岸所長は、この問題を完全に解消しきれていなかった――それでも高柱第四環境循環研究所の労働環境は、毎年優良だと判定される。職場に対する社会評価ポイントも、年々上昇する一方だ。……ありがたいことだ。喜ばしいこと。たとえそんな慎ましく涙ぐましい上昇が――人間に値しなかったクズの生物学的親のせいで、すべてが台無しにされているとしても。


 それでも狩理は全員を毎日控え室から送り出す。毎日、毎日だ。昼休みには、できる限り最後に自分が部屋に残ることにしている。

 それは癖というには曖昧な、自分のなかでとくに根拠も理論もない曖昧な彼の習慣だった。


 しかし強いて言えば、国立学府の昼休みと高柱第四環境循環研究所の標準的な昼休みの時間は若干ずれていて、どうしてもこちらの昼休みの終わりに婚約者やその弟からの連絡が入りやすい――という事情が、関係しているのかもしれない。


 狩理は能面のような表情で、元気いっぱいの偽りの返信を送る。手慣れた指の速度で、気を遣いに遣いまくった愛想笑いのような長文だって、一瞬にしてつくれる。


『ブランドのケーキ、いいね、もちろん買って帰るよ! 真ちゃんはイチゴのショートケーキが好きだから、やっぱりイチゴのショートケーキがいいのかな? ところで最悪って言っていたけど、どうしたの? 俺なんか何の役にも立てないだろうけど話ならいくらでも聞かせてよ!』


 送信。死んだ目で。自分の根本的な何かがずっと削れていく感覚のまま。


『いますぐ買ってきて。あと、最悪なのは化とあたしの話だから狩理くんにはほんと関係ないんだけどどうしてもって言うなら教えてあげるよー』

『いますぐ、了解! 真ちゃんたちはこれから家に帰るのかな? そして、お話、どうしても教えてほしいな! 真ちゃんと化くんの話だというのに俺にも教えてくれようとするなんて、真ちゃんってほんとに優しいね! いつもありがとう!』


 ……空虚。空虚だ。

 なんでこんなことで感謝を言わなきゃいけないんだ。

 理解ができない。まったく。理解しがたい。そりゃ、たしかに。自分が幼いころに人間未満に堕ちないで済んだのは、南美川家のおかげだと重々承知している。でも。なぜ。こんな、いい大人になってまで。ずっと、ずっと。自分は永遠に南美川家には逆らえずに。社会評価ポイントを担保として縛られ続けたまま――。


『うん、じゃあまあ教えてあげようかな? なんか、いま雑魚戦してるんだけど』


 そこでいったん、メッセージが途切れて。

 しかし息つくもないまま、すぐに続きが送られてくる。


『雑魚が雑魚のくせにアンフェアだとか言い出してね。こっちが有利なんだって。へんでしょ? こっちが不利だって勝てるに決まってるのに。だから化にすぐアンフェアな状態を解除してもらったんだ。だいたい、化がへんに見栄を張らなきゃよかったんだよ? まあ化のすることだから許してあげたけどー。でも腹が立ったから甘いものが食べたくなったー。午後の授業は休んでこのままあたしは家に帰るから』


 ……どういう、ことだ。

 ふたごが公園事件を起こしていることは、狩理はもちろん知っている。

 だが、これはつまり――どういうことだと必死で出来の良い頭をひねるが、しかし、答えは、……どこにもなかった。


 ……冷や汗が。

 だくだく、出てくる感覚。

 早く、早く返事をしないと。早く、早く。遅いと彼らを苛立たせてしまう――。


『そっか、そうなんだ。大変だったね。真ちゃんと化くんのほうが強いに決まってるのにね!』


 ……すこしの、間が空く。

 奇妙な間。不気味な間。


『ねえ、狩理くん』


 とん、と。

 ……あらわれる文字のメッセージは、ごく簡潔でありふれた表現なのに、すでに凍っていると――なぜだろうか、狩理にはわかってしまう。


『理解できないなら、無難な返事をしないで? 殺すよ』


 ごめんなさい――と、どうして。

 自分は。永遠に。お礼と、謝罪を。どうして、なぜ、なぜなんだ、彼らに永遠に――果ての見えない虚無の道のりのように、捧げ続けなければならないんだ。


 内心ではそう思うけれど狩理にできることはない。

 彼らに従順に従うほか――できることはない。


 狩理は、南美川家に助けられた存在だから。

 ほんとうは人間未満堕ちだったのに――南美川家の豊かな豊かな恩情で、……助けていただけることが、できたのだから。


 だから狩理は今日も謝る。

 謝罪と、お礼と、媚びを繰り返して。自分の心を今日も今日とて沼に沈めて――彼らのためにすべてを捧げて、削って、生きていくのだ。


 フリック画面に、指を添えた。

 うまれでてくる言葉は、もちろん謝罪と肯定と――。

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