無限大の可能性と、旧態依然な国立学府の図書館

 クローズドネットは、現代社会でなお制御できていない人間の領域。倫理監査局はずっと制限、あるいは完全なる抹殺を望んでいるけれど、滅ぼされてはよみがえってくる、不死鳥のようなゾンビのような、人間の本音の世界――匿名による。


 まさか人工知能社会になってなお、匿名世界が残るだなんて。

 旧時代の人間も、びっくりだろうと化はおどけるように思う。


 物理学や応用数学による対策チームに呼ばれていないような専門家たち、あるいは、もともと物理学や応用数学も含め別の分野の対策本部に参加していたはずの優秀な専門家たちが、新時代情報大学に向かっていった。


 新時代情報大学というNeco関連の大学に動きがあった。


 ……情報は入ってきていたのだけれども、気がつくのにはちょっと遅かったな、と化は思っている――もちろん、それでも遅すぎるということはないのだけれど。


 そう、遅すぎるということは基本的に化にとっては、ない。


 ならばなぜ来栖春という名の彼は逃がしてしまったのか――それは、化のなかで今後も残る課題、いますぐにも対応しなければならない問題、……現在進行形で、対応している改善点なのだけれども。



 ……クローズドネットで、聞いていた。だから。わかったんだ、と。

 説明すれば、真はなるほどね、とわかってくれたみたいだった――やっぱり。大丈夫だ。真ちゃんは、真ちゃんだけはわかってくれるのだと、……自分のことをわかりつづけてくれるのだと、化は思う。思い込みではない――事実なのだと化は、沸き上がりかけるネガティブな感情をすべてなかったことにして、ポジティブに、ぴっかりと、……そう思う。


 真は唇を尖らせて、どこか不機嫌そうだった。スクランブルエッグをかき混ぜる手つきも、若干、鈍いものになる。


「……えええ、でもそれって、ちょっと面倒なことにならないかなあ」

「そうか、な」

「うん、そうだよお……だってさあ、Necoで操作してるんだって――わかられちゃったわけでしょおお。あたしたちの動かしている、ゲームが」

「うん。そうだ、ね」


 化はぴったりとしたデザインのズボンの右にある大きめのポケットから、小さなそのマシンを取り出した。不機嫌そうなまま、しかし真もゆるっとしたデザインのズボンの左にある大きめのポケットから、同じものを取り出す。

 それは世界を操作できるマシン。

 化と真が、来栖春に逃げられてから習得したNeco言語で創り上げた――だいすきなだいすきなだいすきな、いまとなってはすっごくかわいくなった姉さんと、ついでに来栖春を閉じ込めた、万華鏡のような世界を。



 化は思う。目の前にいる、真のちょっとした動揺と疑問を無視して。

 自分の思考の世界へ、はいる。……化にとってそれは日常茶飯事の、ほんとうに、よくあること。



 ……きっと、彼も、いまにもっとかわいくしてあげられるんだ、って。

 姉さんとつがいにしてあげたっていい。いや、むしろ、それがいちばんいいだろう。かわいくって、みんなが幸せで、だれにとっても輝かしい笑顔あふれるハッピーエンド。



 Neco言語の可能性は無限大。

 どこかの優秀なNeco専門家が、なにかの書籍でそう書いていたのを読んだ。現代ではむしろ貴重な情報はデジタルではなくアナログで残される。価値があるのだ。モノのように。国立学府の図書館には、そんなアナログな価値あるモノとしての情報――書籍がたんまりと詰め込まれた図書館があって、化も真も、もちろんそんな一流の情報源にいくらでもアクセスできる。……国立学府にはなんでもあるのだ。なんでも学べるし、だからあらゆる分野の情報が、きらきら、きらきらと眠っている。


 化はそのフレーズを、国立学府の図書館の棚の前で読んだ。

 立ち読みをしていたのだ。化は図書館で本を借りたことがない。一度読めば内容は頭にインストールされるし、だから本を借りるという人間の思考回路や能力の限界が、想像はできても自分自身にない感覚でうまいことわからず、掴めず、いまいちぴんとこない。


 国立学府の図書館の建物は荘厳で、それ自体が建築物として価値あるものだという。関係者でなければ入れない建物。天井は高く、壁や棚はいちいち煌びやかで、でも主張しすぎず上品で、あちらこちらに最新のツールが設置してある。……少し前までは旧時代のアートが旧時代のまま設置されていたらしいけれど、こんなものは現在ほとんどなんの価値もないとして、ついに破棄されたのだ。……いずれ、最先端の人間未満工学による、人間の皮膚を素材とした人間型家具の実験的設置が検討されていると聞いて、化は、すごく楽しみにしている。……実験に、ぜひともたくさん協力したい。


 でも、アートが設置されていたところはまだ最新のツールで埋まってはいなくって、その空白じたいがまるで一個のアートっぽくって、……最先端の価値観をもつ国立学府の学生たちからは、あんまり好評じゃない。


 ……アートは、かわいくない。

 なぜ人間はアートを必要としてきたのか。


 化に言わせれば、それは、人間の基準に達せなかった、本来人間ではなかったのに誤って人間だとされていた者たちの慰めに過ぎない。

 彼らは人間基準に満たない自分自身の嘆きを、アートというかたちに変換したに過ぎない。


 それは無駄な、本当に無駄な営みだった。

 アートなどを作り縋る人間たちの人権を、もっと早くに剥奪できていればよかった。


 化は、高柱猫をみんなが言うように天才だとは思わない。

 彼はあくまで当たり前のことを言って、実行しただけだ。

 天才ではない。

 ただ、ふつうの人間だっただけ。



 旧時代の人類が、ふつうではなかっただけ。



 ……今回の、ゲームを起動するにあたって。

 化は国立学府の図書館でNecoに関する文献をひと通りは読んで、頭に入れた。

 貴重な情報ほどアナログになるという、旧時代の想像を反転させたような、揺り戻しのような、けれども厳然たるいまの社会の事実。


 みな、こうして情報を頭に入れてきたのだろうと思う。人類は。

 国立学府の図書館は採光性にも優れているけれど、だからこそ計算され尽くしているのだろうか、本棚の前は埃がきらきら光る程度の静かな明るさと暗さに満ちていて、本棚の前で書籍を手にする国立学府のメンバーたちを、ちらちら、ちらちら、絵画的に演出している。

 ……いや、それは埃じゃないという噂も聞いた。むかしはたしかに、埃だったらしい。けれどいまは超優秀者たちの集まりである国立学府の図書館を演出するための、簡易的プロジェクション・マッピングなんじゃないかって。


 そうかもしれない。光の反射や、角度的に。

 ……化にとっては、どっちでもいいことだったけれど。

 でも、印象には残っている。


 Neco言語の可能性は無限大、というフレーズは、国立学府の旧態依然な図書館での平面的なシチュエーションと、化にとっては直結していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る