単位ください

 夕暮れが始まっている。

 シルエットのようにたたずむ春に、銀次郎は話を続ける。


『そんでマジでウチの大学に来てよ、Necoを専攻しちまったのか』

『そう、です』

『もともとNecoに思い入れはあったってこったな。ネガティブな意味でもよ。だからNecoプログラミングサンプルにも興味しんしんだったのか。一日十何時間も勉強するほどによ』

『……それは、ちょっと』

『ああ? あんだよ。声が小さくて聞き取れねえ』

『ちょっと、だけ、違う、と思います』

『興味もねえのにそこまでコストをかけて勉強したんだな』

『……だって、やらないと、いけませんでしたから。単位の、ために』

『おまえよ、さっきから思ってたけどよ、ほんと単位がほしいんだな』

『……それは、……そうです。単位がないと、僕は』


 春はなにかを言いかけて、ふっと途切れた。


『おまえは、なんだってんだよ』

『……それも、言わないと、いけませんか』

『試験だっつってんだろ。全部包み隠さず言わねえと単位やんねえぞ』

『……はい。単位がなければ、僕は人間じゃ、なくなります。大学生活は、……最初で最後の、ラストチャンスだと思いますから。僕のような人間はほかの人間のかたよりもずっと頑張らなくちゃいけないんです。生まれつきの頭の悪さと劣等を補わなければいけませんから』

『それがおまえの勉強の動機かよ。……学生のやつらは単位はほしいだろうけどよ、おまえのように単位がなけりゃあ死ぬってほどの気持ちはねえと思うぞ。まあそりゃふつうは、大学を出られなきゃ一気に劣等者コースが待ってるだろうけどよ』

『それは、みなさんが、優秀ですから……』



 銀次郎は手もとにある彼の解答に目を落とした。

 他人が優秀だと言う彼の解答は――やはり何度見ても、わかる限りではパーフェクトだ。



『おい、人間未満の調教施設の話があるんだけどよ。いつかテレビかなんかで見ただけの話だが』


 人間未満、という言葉に春の肩は小さく痙攣したように動いたが、すぐに治まってなにごともなかったかのようになる。


『人間未満のやつらはやんなきゃ死ぬって思うように調教されるんだそうだ。命令に従わなければ死ぬ。命令を満足にこなせなければ死ぬ。命令に逆らえばもちろん死ぬ。それを言葉だけでなく実感させるように、実際に何匹か見せしめに殺すことも日常なんだと。餌や水を与えたり与えなかったりでコントロールもできるらしいな。鞭ってーのもあれ、実際にぶたれると見ているほうのイメージよりはるかに痛いみてえだぞ、一発食らうだけで飛び上がるほどだそうだ。まあ人間未満だしな。獣と同じだ。恐怖心を与えなきゃ調教なんざ成功しねえ。そうやって調教されてるからよ、やつらはどんな屈辱的な命令でも、過酷な命令でも、それがいくら非効率で不合理でもよ、人間として過ごしていたころの思考を捨ててただ死にたくないって感情に支配される可哀想な生き物になって必死で命令をこなすらしいぞ。そこまでいきゃあ立派な人間未満として出荷できる』

『……そう、なんですか』

『おまえはどうも人間未満のような動機で大学の勉強をしてるんだな』

『そう、ですね』

『命令すりゃあなんでもするって言うしよ』

『……はい』



 夕暮れの気配が強くなっている。……潮時かもしれない。

 初めて、最終試験をここまでこなしてきた学生のことを知りたかった。

 知ってみれば、――なるほど優秀というメンタルからは程遠かった。劣等者、もっと言えば人間未満のそれに匹敵するといっていいほどのメンタルをもっている。


 だが、それと実際に劣等であるかは別の話だ。この学生の話は、奇妙で理解しがたいところもあったが、ともかく勉強の方法や動機などはひと通り聞いて把握した。とにかくいちどこの解答用紙を持ち帰って採点しないことには、実際のところがわからないと思った。


 それに、この学生は呼びつければいつでも来そうだ――友達もおらず、大学以外の時間はすべて大学の試験勉強に、もっと言うならば単位を取得してNecoプログラミングを修めて一人前の社会人として生きていくために、費やしているのだから。単位のためと言えば、いつでもどこでも従順な人犬のようにやって来そうだという印象があった。



 銀次郎は教壇の上でトントンと解答用紙を揃えた。


『おい。試験はここまでだ。帰っていいぞ』

『あの。はい。ありがとうございます。あの。……すみません、あの、ひとつだけいいですか』

『あんだ』

『これで、合格、……できましたか』

『あのなあ』


 銀次郎は呆れた声を出す。


『教員がそれ成績開示前に学生に教えるのは、不正だかんな、不正。おまえいま教員に不正行為を要求したんだぞ。それ自体がおまえの不正行為になるってことを忘れんな』

『あっ、その、そう、そうですよね、……そういうつもりじゃなかったんです、すみません、すみません、ほんとうに申し訳ありません、……謝ります、なんでもしますから』

『……ほんと気持ち悪ぃなおまえは。調教施設にいそうだよな、こういう人間未満』

『すみません……すみません……』

『まあ合格できなきゃ死ぬんだろ。大学を出られなきゃよ。いまどき大学出ねえでやってけるのなんざ、一部のとんでもねえ優秀者だけだもんな。おまえはそういうとんでもねえ優秀者にも見えねえしよ。ほんと命みたいに単位を乞うんだな』

『すみません……すみません……単位、単位を、ください』

『そいでなんでもするってか』

『……します、ほんとうになんでもします、だから……ゆるしてください……』



 銀次郎は後頭部の髪を掴んだ。やはり。――調子が狂う。

 自分より劣等な者をいじめる趣味はまったくないのに、……まるで調教施設の調教師を、趣味でも仕事でもないのにやらされているような気分になる。



『単位を……』


 その声に嗚咽が混ざって、銀次郎はぎょっとする。――まさか泣いてるわけじゃねえよな、こいつ。


『ください』


 まわりを慮るように、控えめな嗚咽を漏らして。

 この学生は信じられないことに、……涙を垂らして、靴に落とした。



『……おいおい、おまえ、もう二十歳かそこらなんだろ。人前で泣くなんざ恥ずかしいと思わねーのか』

『思います、とても、ほんとうに、……恥ずかしいです』


 両手の甲を目にこすりつける。溢れる涙を拭いているのだ。


『でも泣かなければいけないように、されたんです』

『あんだそれは。他人に命令されたのか』

『僕が泣いてもゆるしてくれないんです。でも泣かないと終わらないんです。僕が惨めでないと終わらないんです。だから泣くようになってしまったんです』


 つくづく、なにを言っているのか、……たまにほんとうに、わからない。


『だから、すみません、……僕のせいなんです。床を汚してしまってすみません。泣いてみっともなくて不愉快にさせてすみません。きれいにします、謝ります、……自分の存在が劣等で間違ってるからお詫びして償いしますから、ゆるしてください……ゆるして……』


 最後のほうは嗚咽を隠しきれていなくて。

 軽蔑するわけではなかったが、ただシンプルに事実として、――みっともない、と思った。



 ただ、銀次郎にはわけのわからないことを言って謝り続けるそのさまは――言葉にも淀みがなくて、やたらと慣れていて。……まるでそういう台詞をいままで繰り返し口にしてきたかのような様子だった。



 銀次郎は虫でも追い払うかのように手のひらを動かす。



『床の掃除なんざあとで人権制限者が来て掃除するだろうよ。それよか試験は終わりなんだ。おまえは、さっさと帰れ』

『はい、……はい、すみません、……すみません』



 銀次郎に向かって、春は深々とお辞儀した――単位くださいなどと言って土下座でもされたらまた気持ち悪ぃなと思ったが、そんなこともなく、……手の甲で目を覆って小さく泣き続けながら、彼は、来栖春は、大講堂から出ていった。

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