Necoは助けてくれなかった

 ひきこもりは許されない社会。

 それなのに、この学生はひきこもりだったと言う。


 銀次郎は春を見る。春はうつむいている。


『正直に言えよ。これは、試験なんだからな。おまえの言ってる社会に殺されるってーのは、ひきこもりを続けてりゃいずれは人権を奪われるということか』

『……そんな、感じです』

『それが急に怖くなったのか』

『そう、ですね』

『けどよ、おまえが言うにはおまえは人間に値しないんだろうがよ。人権を奪われたら、それはそれで、本望なんじゃねえのか』

『そう、ですよね』

『じゃあそのまま勝手に人間未満になってりゃよかったじゃねえか。やっぱりわかんねえな、どうして大学に来たんだよ』

『……浅ましいですよね』


 浅ましい。

 普段の生活ではなかなか聞かない単語が出てきて、銀次郎は一瞬その言葉が頭で変換できなかった。


『あの、これも、……試験ですから。正直に答えないと、単位、くださらないんですよね』

『そうだっつってんだろ』


 やたらと単位にこだわるやつだ、と銀次郎は思う。

 春は自分の靴と会話を始めるかのように、視線を落とした。そのまま黙っていたので、おい話せよと銀次郎が口を開きかけたタイミングで。ぼそぼそと、聞き取りづらい声でしゃべりはじめる。


『人間未満になったって、よかったんです。どうせ、人間に値しないんですから。本気でそう思ってました。……人間ともいえない日々を過ごしていました。でもある日、実感、しました』

『人間未満になることを、か』

『……はい。そう思ったら、やっぱり、怖くなりました。人間じゃ、ないけれど。人間の皮をかぶってでも……人間になりたい、って思いました』

『人間の皮をかぶる、ねえ』


 銀次郎はふいに煙草が吸いたくなった――「浅ましい」といい、「人間の皮をかぶる」といい。この学生はやたらに、……社会で耳慣れない言葉を使う。


『それで、あの、……まだ話さないと、駄目ですか』

『駄目に決まってんだろ。俺ぁまだおまえがなんで大学に来たのか納得してねえ』

『……すみません。それで、あの、だから、……なにかができるようにならなきゃ、って』

『そんで手に職つけるために、人工知能プログラミングでもやってみっか、ってか』

『……そう、ですね』

『多いんだよな。そういう学生。一芸に秀でてりゃ生きられる。まあそういう世のなかだからな。俺は人工知能プログラミングがそういう技術として扱われんのは気に入らねえけどよ』

『すみません』

『まあでも人工知能プログラミングができりゃあ最低でも標準者として生きられんのはたしかだな。おまえもそれを狙ってたってわけか。まあウチの大学はたいした受験もねえしな。能力をつけて人間未満堕ちを回避か』


 そういうことです、と蚊の鳴くような声で春は言った。



 蝉の鳴き声は収まりつつある。すこしずつ静かになっていく新時代情報大学の空気は、夕方と夏休みが近いことを知らせていた。


 どうやらこの学生はごくありふれた動機で新時代情報大学に来たようだった。

 彼のように、ひきこもりをして人間未満への処分が現実的に見えていたようなケースは、珍しいといえば珍しい。だがそれも程度問題だ。もともと劣等な傾向があるからこそ、技術を身につけて社会に貢献して、人権をもったひとりの人間として生きていこうと考える。そういった学生は多い。

 彼の動機自体は理解できた。

 だが、銀次郎は納得しきれなかった。

 そんなありふれた動機で入ってきた学生が――Necoプログラミングのサンプルを覚えるために、一日十何時間も費やすか。それで実際、……パーフェクトと思える解答を書いてくるのか。それは、けっしてありふれたことでは、ないのだ。


 たたずむ春の全身が早く帰りたいと訴えている。そのことを言葉で伝えることも身振り手振りで表すこともできない。だからただ全身に滲む。滲んだところで、どうしようもなく。銀次郎やだれかが残れと言えば、このまま残り続けるのだろう。

 春の帰りたいという訴えは、不満ではなく、堪え忍ぶ従順さとして全身にあらわれていた。訴えは要求ではなく命乞いに似ているのだ。銀次郎もそれを感じとることができた。



『帰りてえのか』

『え、あ、その、……いえ』

『もうちっと試験は続くぞ。おまえはプログラミングにもともと興味があったのか』

『……その』

『正直でいいぞ。答えろ』

『あると言えば、ありました。けど……たぶん、いい意味では、ないと思います』

『もっと具体的に言え』

『あの、Necoは、……僕を助けてくれなかったので』


 春は、ますます深くうつむく。


『僕がいじめられていても、じっと見ているだけだったので……』

『はーん、なるほどなあ。おまえ、たしかにいじめられそうだもんな』

『……そう、ですよね。だから、Necoも、そう判断したんですよね』

『そりゃあいじめる人間といじめられる人間の社会評価ポイントの差によるだろ。Necoが沈黙してったってんなら、いじめられる人間、つまりおまえだな、おまえのほうがいじめる人間よりもよっぽど劣等だったってだけのこった。どんくらい差があったのか自分ではわかってたのか』

『はい、それはもう、……すごく』

『Necoが沈黙するに妥当な差があったんだよな』

『すごく、ありました……』

『じゃあNecoがおまえを助けなかったんじゃねえよ。おまえの劣等性がおまえを助けなかったんだよ。……Necoのせいにすんな』


 ふいに、浮かんできた。幼いころの自分。本を両手で広げて、大人を睨みあげてばかりだった。

 少年時代の自分は、優秀になるためには努力をしなければいけない、と大人になった自分に教え続けている。そうでなければ、……だれも自分を、おまえを、助けない、と。


『そう、なんですよね。わかって……わかって、ます。僕は助けるには値しなくて。Necoが沈黙しているのも、当然で』


 春の言葉は、ぽつり、と響く。


『いつも、高校の教室では、Necoのカメラやスピーカーを見上げていました。今日も助けてくれない。ずっと……助けてくれない、って』

『もっと言うならよ。Necoが助けないんじゃねえよ。Necoは社会の実行者でしかねえ。社会の基準に満たないから作動しねえだけだよ』

『そうです、よね、……そうですよね、そうです、よね。僕が、間違ってます、僕は、Necoが助けてくれないって、……思ってしまいました。高校の、二年生になるまでは、ずっと、……助けてくれる人工知能だって、思ってたんです』

『その人間がその集団のなかでまともな基準値を保つ程度には劣等じゃなけりゃあなあ。……そんで? おまえを助けてくれなかったひっどいNecoを、どうして大学で勉強しようなんざ思ったんだよ』

『助けて、くれなかったから、興味がありました』

『歪んでるな。おまえ』


 春はうつむいたままだ。顔も上げない。笑うことも怒ることもしない。



 たしかにそういう意味ではなかなか、あまりない動機かもしれない――手に職をつけるためにやって来る学生はたいていよくも悪くも人工知能プログラミングそのものに興味がない。そういう学生はほんとうに人工知能プログラミングに興味があってやって来る学生とはそもそも別の動機だ。

 この社会で人間として認められて生きていくため、技術をつけるためにやって来るタイプの学生としては、人工知能プログラミングに対してここまで個人的に語ることがあるというのは、レアケースだ――たとえネガティブな意味であっても。

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