ひきこもりや無職をめぐる社会のこと

 銀次郎は脚を組み直した。


『自分が劣等、劣等って言うけどよ。でもよおまえは仮にも大学生なわけだろ。たしかにウチの大学はそう優秀な大学じゃねえな。そんでもよ、社会に認められて大学生やってんならよ、劣等者ってわけじゃねえだろうよ』

『それは、なんででしょうね、……僕はほんとうは、劣等者なんですけども』

『おまえがそう思い込みてえだけじゃねえのかよ。劣等者なら劣等者らしく、畜肉処分でもなんでも申し込みゃよかったじゃねえか。なのにいま大学生やってるってーのは、矛盾してんじゃねーか』

『畜肉処分は、申し込もうとしたんですけど。家族に、止められまして』

『じゃあなおさら大丈夫なんじゃねえのか。自分を愛してくれる家族がいるんなら、劣等になることなんざありえねえだろ、いざとなりゃあ家族がどうにかしてくれるんだからよ』


 春は、曖昧に、中途半端に、目を笑顔のかたちに近づけた。

 銀次郎はますます言葉をぶつけようとしていた――たかがひとりの学生に対して、しかも王たちのようには優秀といえない学生に対して、どうしてここまでの興味が湧くのか。自分でもわからなかったが、とにかく、いまは聞きたいことを聞いてみたかった。


『おまえは、どうして大学に来たんだよ』

『……殺されると、思ったから』

『またそれか。あんだよ殺されるって。家族はおまえを大事にしてるっぽいじゃねーか』

『社会に、殺されると思ったんです。あの。僕。……ほかの同級生のかたがたよりたぶん、年上なんです』

『浪人か留年ってことか』


 いまどき浪人や留年というのはあまりない――そのぶん成人が遅れたり社会に出るのが遅れたりするのが、単純に社会評価ポイントの損失だからだ。基本的にはみな進学や就職を急ぐ傾向にある。

 社会人学生という文化は残ってはいるが、その場合の条件はかなり厳しい。日頃から社会に多大なる貢献をしている優秀な社会人しか、学生をやることは認められない。だから必然的に現役世代以上の年齢の大学生は少ない。それにそういう優秀な社会人は、新時代情報大学のような大学ではなく、国立学府や準国立学府レベルの大学のような優秀な大学を選ぶ傾向にある。

 だから新時代情報大学の学部の学生も、十八歳から二十二歳の学生がいちばん多い。浪人や留年を経て数年遅れる学生もいないことはないが、たしかに、少数だ。


『浪人、っていうか、……高校を卒業してから、なにもしてなくて』

『ひきこもりかよ』

『……そうです』

『本気かよ。まさかと思って訊いたんだがな』



 ひきこもりや無職というのは、この社会ではいちばん危惧される現象のひとつだ。ひきこもっていたり仕事をしていなかったりというのは、社会資源を食い潰すことになる。だからあまりにもその状態が続けば、人権制限、ひいては人権剥奪につながることになる。

 もちろん人はあらゆる事情で、少しひきこもることも少し仕事をしないようなこともありえるだろうから、猶予期間として一定の年数は設定されている。各々の固有の事情も鑑みられる。家族や友人がかばうことも有効だ。

 だがそれも、永遠というわけにはいかない。ひきこもりや無職を抱えている家庭は、それだけで世帯単位の社会評価ポイントが大きく下がるのだ。家族ひとりひとりにも大きな負担がかかることになる。

 ちなみに、かばってくれる家族や友人のいないひきこもりや無職は――猶予期間はごくわずかに設定されており、たいていの場合あっというまに、人権剥奪が確定することになる。損失していく社会評価ポイントをだれも補ってくれないということは、社会全体の損失に直結するからだ。だからこそ、家族や友人のいない者こそ死に物狂いで社会に出たり働いたりするという現状がある。その結果、限界がきて社会に出ることも働くこともやめてしまって――あっというまに人間未満へ、というのもごくありふれた話だが。



 旧時代と違って、現代は科学技術が目覚ましい勢いで進歩している。

 身体の障害、という概念はほとんどなくなった。視覚のハンディも、聴覚のハンディも、音声や言語や咀嚼にかかわるハンディも、肢体のハンディも、内臓機能などによる内部のハンディも、ありとあらゆる身体的なハンディにはほとんど対応できるようになった。生まれつき判明すれば保護者の同意のもとで手術を施すことも可能だし、あくまでもそれを「個性」として尊重したいのであれば、身体機能はそのままにしてツールで補う、あるいは補うだけではなく補った上で強くする、という選択肢もある。

 バーチャル・リアリティ機能のついた矯正眼鏡や、遠くの音までクリアに拾えて音感まで発達する補聴器や、自分の好きな声質を選んで美しくしゃべることも高らかに歌うこともできる音声ツールや、非常に速く走ることができて様々なギミックの搭載された車椅子や、生涯その機能が失われることのない非常に安全で丈夫な人工臓器などのツールは、原則ハンディを持った者が優先して手に入れる権利をもっている。ハンディを持っていなくとも、そういったツールを欲しがる者は多い。とくに最新型が出ると欲しがる者は多いのだ――当然、最新型もハンディを持った者に優先的に届けられる。

 そういったツールが欲しくてみずから身体を傷つけてハンディを起こした、という事件もいくつかあったが――それは社会全体の損失になる行為で、犯罪だ。判明したら即、人権制限か人権剥奪になるので、いまではそんなことをする者もほとんどいない。ただ、生まれ持ったハンディ自体はあえてそのままにしておいてツールを優先的に活用する、というのは自由だから――そちらのほうがメリットがある、と判断するケースもそう珍しいことではないのだ。

 ただ現代の科学技術をもってしても、どうしても対応できない超難病というのが、ごくわずかにまだ存在する。その場合は、技術を完成させることができていない社会全体の責任として、超難病を抱える者の生活を支えていくことになる。彼または彼女本人になんらの責任はないのだ。結果的に家から出られない状態でも仕事ができない状態でも、人権が制限されることも剥奪されることも、当然ありえない。社会の損失を増やしているのではない。社会が彼または彼女に対して損失を負わせているのだ。だから、その超難病を治す技術が見つかるまでは、社会は彼または彼女に対して賠償金を支払い続ける。


 つまり。現代のこの社会ではいずれにせよ、ひきこもりや無職の理由として身体の障害を挙げることはほぼ不可能になったし、やむを得ない超難病の場合は生涯の生活と人権が保証されている。



 ただ、ほかの種類のハンディの場合は多少事情が異なる――従来では知的な障害とされていたもの、精神の障害とされていたものは、身体の障害とは別のかたちで社会構造に組み込まれた。

 どちらも優秀性と劣等性の問題とされたのだ。たとえば学校の勉強ができないのも劣等性の問題。たとえば気分がわけもなく塞がってしまうのも劣等性の問題。

 もちろん、そこに従来でいう知的なハンディや精神的なハンディがあると専門家が判定することは可能だ――だがそこから、どうするか。あくまでも優秀になることのほうが、大事なのだ。

 優秀になること、劣等にならないことは、自己責任。

 すべてをいっしょくたに自己責任にしてしまうことに、激しい反論をおこなう研究者たちもいる――だが現状では知的な問題や精神的な問題は、本人の優秀性あるいは劣等性の問題に還元されてしまう。

 現代では、そういう意味で知的な障害と精神の障害という概念もなくなった。言い換えれば、優秀性と劣等性の概念に吸収されたのだ。


 つまり。現代のこの社会では、知的な障害と精神の障害は、本人の問題にされる。ハンディとしてサポートしてもらえるという前提は、ない。自分でカバーしなければならないのだ。



 どんなハンディをもつにせよ。

 現代ではもはや、障害という概念はほとんど機能していない。

 ひきこもるのも無職なのも――障害のせいではなく、自分のせいであるはず。

 そう判定されるからこそ。みんな、必死になって社会に出るし働く。


 ひきこもってしまえば、文字通り人生が終わるのだ。ひととしての、生が。

 だから銀次郎も、まさかと思って訊いたのだ――この社会で、まさか、ひきこもりなんてふつうはしない、と。

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