チェック、開始

 Necoプログラミング入門の試験が終わった、その日の深夜。

 銀次郎の研究室に、依城寿仁亜がやって来た。この時間にもかかわらず、フォーマルなスーツをきっちりと着こなしている。


『冴木先生、ご無沙汰しております。依城寿仁亜、参りました』

『おい、依城。いつも言うけどよ。そんな久々でもねーだろうがよ』

『これはこれは、毎度大変、恐れ入ります。しかし僕にとっては先生と毎日会える新時代情報大学での日々こそが貴重であり、基準であり、一日以上空けばどうしてもご無沙汰しておりますとご挨拶したくなってしまうのです』

『それも聞き飽きた。おまえさ、やっぱまともなようでそういうとこ変だわ』

『恐縮です……』


 そして寿仁亜は素子にも丁寧な挨拶をした上で、銀次郎のデスクのかたわらに膝をつく。最初こそ寿仁亜のこの着ているスーツが汚れるのも気にしない振る舞いが少し気になったが、いまでは気にも留めなくなった。寿仁亜はそういう振る舞いを望んでしたがっていると理解したからだ。やがては、ご無沙汰しておりますといちいち言うその癖も、気にならなくなるのだろう。

 素子はコーヒーを淹れはじめる。寿仁亜の飲むものを素子はもうわかっている、ブラックのアメリカンスタイル・コーヒーだ。寿仁亜は実はかなりのグルメで、飲みものにもこだわろうと思えばいくらでもこだわれる――だがそのこだわりを銀次郎の研究室ではけっして見せないのだった。素子は来客に合わせて何十種類もの飲みものを用意しており、寿仁亜もそのことを知っているはずだが、今日はこれが飲みたいあれが飲みたい、とはけっして言わない。師匠たる銀次郎の研究室で、師匠たる銀次郎の信頼する秘書である素子に無駄な労力はかけない――頑固なほどにそう思っていることが、研究室での時間を過ごすうちに自然とわかってきた。ただ、とはいえ来客に飲みものを出すのは新時代情報大学での決まりでもあるし、素子の矜持でもある。そのことまでも寿仁亜は理解し、素子を立ててかつ無駄な労力をかけない方法ということで、毎回おなじ飲みものを出してもらうというところに落ち着いているのだろう。

 銀次郎もそのことをわかっているし、素子はもしかしたら銀次郎以上にわかっているのかもしれない。あるときから素子は寿仁亜には飲みものの希望を尋ねなくなった。そちらのほうがかえって寿仁亜という優秀者に対する礼儀にかなっていると判断したのだ。

 ちなみにその文化は銀次郎のほかの弟子たちにも寿仁亜経由で受け継がれ、銀次郎の弟子たちに出す飲みものは基本的に決まっている――ただし木枯木太は機嫌しだいでたまに異なる飲みものを要求するし、まだ学部生だがおそらくはこのまま王の認定をされるジェシカ・アンジェリカも、気まぐれにほかの飲みものを素子にねだっているときがあるが。


『それで、先生。この答案ですか、チェックすべきものというのは』

『ああ、そうだよ』


 銀次郎はバサリと紙の束を渡した――来栖春の解答用紙だった。


『こちらですね。拝見してもよろしいでしょうか』

『学生の答案に対してまで、いちいち礼儀正しいな。俺が書いたやつじゃねえよ。学部生の答案だよ』

『ええ、もちろん、それはわかります、わかりますとも』

『もうすでに下読みは終えてある。院生ふたりと、若い助手に頼んだ。夕方からいまさっきまで時間をたっぷりかけて、デジタルベースでもアナログベースでもいろんな方法で何度もチェックさせたがよ、三人が三人とも、間違いはねえってよ。比較的チェックが得意なやつを選んだ。そいつらが揃いも揃ってそう言うんだ』

『なるほど。ちなみに恐れ入りますが、先生はご覧になったのですか』

『……読んだよ。でもべつに変なところはなかったな』


 Necoの専門性も銀次郎クラスになると、チェックするという感覚ではなく読むという感覚になる――自分の生まれたときから使っているローカル言語を、理屈以前にすらすら読めてしまうのと同じだ。

 しかしそのぶん、厳密なチェックという意味では、まれに、ほんとうにまれにだが、見逃すことがある。たとえば不思議と、ローカル言語のネイティブな使い手よりも、ノンネイティブ、つまり後天的に学習した者のほうがそのローカル言語の論理に明るくて、妙に鋭いところに気がついたりするのだ。

 もちろん純粋な使い手としてはたいていの場合ネイティブな使い手のほうが上だ。それにそもそも銀次郎はNeco言語を後天的な言語として学習している――人工知能でなく人間であったら、人工知能言語を後天的に学習するのは当然のことだ。だれも人工知能言語で人間どうしの関係におけるコミュニケーションをとらない。

 だが銀次郎はNecoを極めすぎたあまりに、すくなくとも読む場合と書く場合においては、ローカル言語と同等かもしかしたらそれ以上に、Neco言語を使いこなせてしまうのだ――だからこそチェックで見落とすことが、まれに、ほんとうにまれにだが、あるということだ。

 それに銀次郎は自分自身をそこまで過信していない。銀次郎のほんとうの専門はNecoのクリエイティビティだから、ほんとうのところチェックに特化したタイプでもない。後進に仕事を回す意味も込めて、チェックの仕事は他人に回す場合がほとんどなのだった。


 実際、寿仁亜は銀次郎と違ってチェックに特化したタイプといえる――寿仁亜は膝をついた格好のまま、両手で春の解答用紙をチェックしはじめた。


 銀次郎はぶすっとして両方の肘をデスクに載せて、頬杖をついている。妙に苛立って、落ち着かないのは、たしかだった。



『……ふむ、なるほど』



 数枚、ぺらりぺらりと軽めに目を通すと、寿仁亜は声を漏らした。


『事情は、お聞きしておりますが。これは僕の代のNecoプログラミング入門で出されたサンプルと同じですね』

『ずっと変えてねえよ。なんだっていいんだよ、課題にするサンプルなんてよ。学生たちにあの最終試験をまともにやることなんざ期待してねえんだからよ』

『でも、先生。僕もやはり、このプログラムは好きです。Necoの水平的美しさが凝縮されている、すべてに対応できる、世界すべてに関する……対話型プログラミングの無限かつ未知の可能性を感じさせてくれる。もちろん先生の足元にも及びませんが、僕ももうそれなりにNecoに取り組み、いちおうはNecoの専門家の端くれとなりました。しかしそれでもなお心が震える瞬間というのがたまにあります。僕の柄でもないんですけれどね……これは、そういうたぐいのプログラムだと思ってしまいます。……ああすみません、パーソナリィなどうでもいい個人的なエモーショナルの話を、べらべらと申し上げてしまいまして、まことに恐縮です』


 銀次郎はぶすっとしたままなにも言わなかった――銀次郎の選んだNecoプログラムのサンプルに関していま依城寿仁亜の言ったことに、なにひとつとして否定すべきことはない。それどころか、全面的に賛成だったからだ。

 たしかに、なんでもいいが。適当に選んできた、というわけでもない――銀次郎が至高と思うNecoプログラミングのひとつを、持ってきているのだ。……ほとんどの学生たちにとってはなんら関係ない、とわかりつつも。


『そして、先生。このアナログベースの筆記は、学生の文字ですよね』

『そうだっつってんだろ』

『そうですよね。あの授業で……本気で覚える学生がいたんですか』

『俺だってびっくりしてるよ。非効率極まる不合理な学生だ』

『おっしゃる通りですね……』



 寿仁亜は、ぺらり、ぺらりと最後まで解答用紙をめくる。……小さく息を吐いた気配がした。ため息なぞめったにつかない寿仁亜にしては――珍しい、と銀次郎は思った。



『……なるほど。たしかにこれは、おそらくは……いや。しかし。……きちんとチェックする必要が、ありますね』

『ったりめーだろ。なんのために、おまえを呼んだと思ってんだよ』

『理解しております。……しかしほんとうにこれは、いつも以上にしっかりと、チェックせねばなりませんね。夜も更けてまいりましたが、まだ研究室にはいらっしゃいますか、先生』

『どうせ帰ってもすることねーよ。それよかどんくらい時間かかるんだよ、そっちを先に教えるのが師匠に対する礼儀ってもんだろうが』

『これはこれは、大変申し訳ございません。そうですねえ……通常でしたらこの程度のチェックは、十分じゅっぷんもあれば済みますが。……通常の基準でやらないほうがよさそうですね』

『当たり前だ。一字一句でも間違ってりゃ、こいつには単位なんざいちミリもやんねーんだからな。それに』


 その続きを言うのに、なぜか無意識にブレーキがかかったが――寿仁亜はおそらく、わかっているはずだった。



 それに。

 ……本来は、一字一句くらいは、間違ってなければいけないはずなんだ。

 それが、間違いがないってことが――なんかの間違いなんじゃねえかって、思うんだよ。



『……かしこまりました。先生。ちなみにですが、失礼を承知で、非常に失礼なことをお尋ねしてもよろしいでしょうか』

『よろしくはねーがよ、どうしてもってんなら聞くだけ聞いてやんなくもねー』

『この学生。当然、不正などの行為はありえないのですよね』

『ありえねーよ。さんざん、素子に検証してもらったんだ』

『なるほど素子さんが、さんざん、検証されたと。それは、不正でありえるわけがないですね……』


 寿仁亜ももちろん、素子の秘書としての飛び抜けた優秀性は知っているはずだ。素子に任せれば、学生の不正のチェックなどはパーフェクトに行ってくれる――Necoが把握していないことでさえも気づけるのだから、おそるべき稀有な能力だ。


『お待たせしました、コーヒーですー』


 素子が銀次郎のデスクに、寿仁亜のぶんのコーヒーを置いた。

 寿仁亜は顔をあげてきらきらとした笑顔になり、ありがとうございます、と言う。素子は控えめに微笑み返して、すでに冷めてしまった銀次郎のマグカップをさりげなく下げた。なにも言われずとも、銀次郎が望むタイミングで素子は動いてくれる。だからこそ、ずっとそばにいてもらって、頼りにしているのだ。


『先生、大変僭越ながら、ソファをお借りしてもよろしいでしょうか』

『かまわねえよ』

『ありがとうございます』


 寿仁亜は立ち上がって深々と銀次郎に礼をすると、来客用のソファに座り、春の解答用紙を来客用のテーブルいっぱいに並べた。……それは、寿仁亜が最上級の集中と意識でプログラムのチェックをするときの、いわば、本気のときの儀式みたいなものであることを、銀次郎はすでに知っていた。



『それでは……』



 依城寿仁亜は、――普段の明るさや礼儀正しさからといっそギャップがあるほどの真剣さで、机の上にいっぱいに広げた春の解答の、チェックをはじめた。

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