約束は、できない
「……よくない……でも……」
南美川さんは、絞り出すかのように言葉を吐き出す。
「よくない、だけでも、ないわ……」
「それは、僕がずっとあなたといっしょにいてあげられるから?」
南美川さんは、びくんと震えた。またしても。
僕はその頭をだから、もっともっと愛しいもののように、……撫でてあげる。
南美川さんは、ふるふると首を横に振った。ちがう、とでも言いたそうに。でもその言葉は、ちがう、とは言えない。だから、……それがたぶん、答えだ。
「南美川さんは、ずっと僕といっしょにいたいんだね。……僕なんかと」
「シュン……」
「僕なんか、どうでもよかったのにね。どうしてだろうね。いつのまにか……あなたは、そんなにも」
「シュン、ちがうの、……ちがうのよ」
「なにが、どう、違うのかな」
僕は南美川さんのこめかみのあたりを、そっと、撫でた。南美川さんは目を細める――気持ちよさそうとも痛そうとも、とれる、表情。
「僕がいなければ、死のうとしていたはずのひとが」
南美川さんは、目を見開いて僕を見た。
その目に、みるみるうちに、涙がたまっていく。まったく。……よく泣くひとに、なってしまった。僕は、後頭部にくしゃりと手をやりたくて……でも、そうはしなかった。
「ちがう……だから……ちがうの……人間には、戻りたいわ。……戻りたいもの。でも、わたしは人間に値しなかったから、人間になったのよ」
「高校のとき、あなたが言ったこと。覚えてる? 僕は人間じゃないって言ったよね。その価値がないって。でもいまでも人間をやっているんだ。だから、……ほんとうは人間であるかどうかなんて、他人が決めたことでしかないんだよ、きっと」
「シュン……?」
わけのわからない、という視線を南美川さんが向けてくる。こういうの僕は嫌いじゃない、というか、……慣れている。
「あなたは人間でいるべきなんだ」
僕はその肩を掴んで、わざとおなじ目線で、……言った。
たとえ、もうすでに。南美川さんのその心が他人に依存したい半分犬そのものになっていても――僕はその意見を、変えない。
「わたしはそうは思わないもの……人間に、戻ったところで」
――しょうがないもの。
南美川さんの、ため息のような言葉の続きが聞こえた気がした。
じょじょに、明るくなってくる。
この公園における朝が、はじまろうとしている。
……無限に、時間があるわけではない。
僕はふっと意識的に頬を緩めて、このひとの頭を普段よりもいっそう優しく撫でた。そういうことには人犬の立場だと敏感になるのだろう、南美川さんはすこしだけそのかたくなさを
「じゃあ、南美川さん。約束しようか」
「約束……?」
「そう。僕はあなたに約束することができる。この公園で歩くノルマを達成して、人間に戻ってくれたら、……ずっといっしょにいてあげると約束することもできる」
「ほんとう……?」
「ほんとうだよ」
実際、南美川さんがおそれているのは、もしかしたら。人間に戻ったところでどうしようもないという、そういう気持ちによる恐怖なのかもしれない。家族には裏切られ、学校はあと一歩のところで修了できず、帰る先もない。それに、いっかい人犬となってしまった心をかかえながら、人間として再出発することは――それはやはりなにかとても恐ろしいのだろうと、僕にだってそう考えることくらいはできるんだから。
「でも、わたし……あなたに約束してほしいことなんて、ないわ」
「ほんとうに、なんにも?」
「だって。犬が、人間と約束するだなんて。おかしいわ」
南美川さんは、静かに微笑む――夜明けが進んで、よりくっきりと見えてくるその顔。その笑顔が、きれいで、……きれいで。
だからこそ僕は、南美川さんが本気でそう言っていることがわかった。……自分の立場を、人犬となってからはきっと、わきまえてしまった、嫌というほど、わきまえさせられてしまったのだ、と。
僕はこんどこそ後頭部の髪をくしゃりと掴んだ、強く、……けっきょくのところ、僕とこのひとはなにかを約束することすらできないのか。
「……だれか来るで」
葉隠さんが、ふいに言った。僕にも、南美川さんにも、その足音は聞こえた――この公園は静かで音が響くから、まだその足音の主がだいぶ遠いということはわかる。でもだからこそもう、時間は切れてしまったことがわかった。すくなくとも、なんにも、約束することはできずに。
「来栖さんがその気なら、もう、私ら行ったほうがええ。……なあ、南美川さん」
南美川さんは、電流でも流されたかのように大きくびくんと肩を震わせた――名前を呼ばれるだけで、その反応。でも葉隠さんは南美川さんに大学時代にいじめられていたんだ。そして南美川さんは、高校時代にいじめた僕に対しても、だからたぶん大学時代にいじめた葉隠さんたちに対しても、自分がなにをしたのかいまではよくわかっている、……人犬になってから、噛み締めるかのように理解してしまったはず。
だから――そんな反応になるのは、ある意味当然ともいえるんだ。……けれど。
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