このままで

 南美川さんは、その目に涙を溜めながら――。



「どうして? なんで? シュンといっしょで、いいじゃない。ううん。シュンといっしょじゃないと、いや、……いやよ、わたし、がんばれない」

「南美川さん、お願い、お願いなんだ……」

「だから、どうして? 理由を教えてよ。わたし、納得できないわ」


 そのふたつの目が、僕を見据える。

 その意思の強さはやはり、……このひとが、人犬になってからも眩しい。


「理由は、教えられない。ごめん。悪いとは、思ってるんだけど」

「わたしは、なにもわからずに、わけもわからずに、あなたから放り出されるの」

「そういうつもりじゃ、……ないんだ」


 でも、南美川さんにとっては、……そういうことに、なるだろう。


 僕は、南美川さんの小さな前足を、両手で取った。……まるで人間どうしがこれから優雅なダンスでも始めるかのように。


「南美川さん。こんなことがなければ、もちろんいっしょに、歩きたかった」

「過去形、なの」

「……こうなるなんて、思わなかった。僕も、あなたも、きっとこの公園のだれも、ネネさんも。いまが非常事態だということは、わかるよね」


 南美川さんは、一瞬ためらって――でも、いまが緊急事態ということを認めないことはできなかったのだろう、こくりと、どこか不満そうにも見えるようすでうなずいた。


「その非常事態をどうにかしなければいけないんだ。……あなたにも僕にも、犯人の見当はついているだろう。この公園のほかのひとたちとは、違って」


 そう、南美川さんにとってはそれは、実の弟と妹。どんぐりみたいな瞳が、迷うように後悔するように揺れた――でもそれも一瞬のことで、南美川さんはすぐに、こくりと、うなずいた。

 葉隠さんには聞こえているし、どこか遠くを見ているかのように静かな素振りをしていても、聞いているのだろうなということはわかる。僕には、よくわかるんだ、そういうことだけ……葉隠さんはおそらく、ひとの話や言葉をよく聞くひとだ。聞こえてしまうひと、と言ってもいいかもしれないけれど――そこは僕とちょっとだけ似ている、……だから僕も葉隠さんも南美川さんにいじめられたのかもしれない、なんて、なにもこんなときに考えなくてもいいようなことを、一瞬だけ心にいだくかのように、思った。

 葉隠さんは、思っているだろうか。いったいその見当のついている犯人というのは、だれなんだと。葉隠さんは、驚くだろうか。もしこの非常事態の犯人が、南美川さんのきょうだいだとわかれば。それとも、あんがい、驚かないだろうか。南美川さんのきょうだいなら当然だと――そのくらいのことを、思ったりするのだろうか。


「だから僕はこの非常事態を解決しなければならない」

「犯人がだれなのか、見当がついてるから……? だとしたら、わたしもいっしょだわ。わたしもいっしょに解決するわ」

「あなたには、……残念だけど、やることがある」


 それに、やれることは少ない、というよりむしろ、ない、どころかいたほうが厄介なことになる――そんなふうに僕の心のほんとうのことを伝えたらいま小さな人犬の身体のこのひとはくしゃりと潰れてもおかしくないはずだから、僕は、……あえてそのことは言うまいと、思った。でも、南美川さんには南美川さんのやることがある――それだって、ほんとうだ。



 ――歩く、こと?



 南美川さんがちょっと首を傾げるようにして言ってきたその言葉と、歩くことだよ、と言った僕の言葉とは、……ほぼ同時に、重なった。

 お互いに、顔を合わせて。……なんにもおかしいことなんてないはずなのに、ふっと、笑うみたいな空気の緩みがあった。でも、笑いではない。断じて。けっして。とても似ているけれど、非なるもの――いまはほんとうの意味で笑って気を緩めることなんか、できるわけがないから。


「そうだよ。南美川さん。歩くことだ」


 僕は、南美川さんの頭を右手で撫でた。……ぐちゃぐちゃで痛みきった金色の髪の毛。僕が高校時代にあんなに、輝かしいと見上げたあの髪。


「ノルマを、達成することだ」

「でも、わたし、……わたし」


 南美川さんがうつむいたから、僕も撫でる手を止めた。

 なにかを、不満に思っている。納得していない。このひとのそんな感情の機微を、……僕はいつしかこんなにも掬い取れるようになってしまった。


「わたし、いいのよ、このままでも。ほんとうに無理なら……人間に戻ることなんて、諦めるもの。だって、それでも、……いいんだもの」

「そうだよね。南美川さんは。……それで、いいはずだよね」


 よくないのは、……僕のほうだから。

 そのことだって重々承知していて、南美川さんに頼み込むようなかたちでこうすることを決めて、そういうもろもろがわかっているのにどうして僕は、……こんなふうに、胸が痛くなるのだろう。

 それだけでは、ない。どうしてこんなに胸をわし掴まれたみたいに苛々と――。


「でも、僕は、よくない」

「どうしてなの……ねえどうしてなの、シュン。そこまでして、わたし、戻らなくったっていいわ――」

「それはあなたがずっとこのままでいいということか」


 びくりと、南美川さんは肩を震わせた。



「南美川さんは、ずっとこのまま、人犬でいたいのか。……こんなに小さな身体で」



 南美川さんは、あ、あ、と言葉にならない声を漏らしはじめた。怖がらせてしまっている。そのことがわかっていて僕は、……南美川さんの毛皮の生えた前足ふたつをまとめあげるかのように右手で握ると、左手で、その頭を撫ではじめた。……南美川さんが、至近距離で見上げてくる。

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