風穴

「南美川さん。行って」


 南美川さんは、すがるように僕を見た。


「葉隠さんといっしょに、行って。歩行ノルマをこなして。お願い。……お願いだ。僕を信じて。僕といっしょにいたいなんて、そんなこと本気で思ってるのなら、……やり遂げて。僕は南美川さんを信じてる。この世界をどうにかしてみせる……あなたの弟と妹のことも」


 南美川さんは、目をすこしだけ見開いた。でもその目は、すぐに哀しそうな色に戻った。尻尾が、しゅんと萎むかのように。


「みんなを、助けるんだ。公園のみんなを」


 柄でもないことが、……自然と、口から出た。

 わざわざ言わなくてもよかったはずのことが、……南美川さんとしばしのお別れになるであろうこの瞬間に、つるりと、勝手に――そんなふうに自己嫌悪に陥るのは簡単だけれども、でも、要は僕はきっと、……南美川さんにだけは、知っておいてもらいたい。


「でもそのためには南美川さん、あなたも僕ががんばっているときに同時に、がんばっているんだとわからなければ、僕はがんばりきることができないかもしれない。……そうしたらたぶんみんな死ぬんだ」

「……死ぬ……? この公園の、ひとたちが?」

「うん。この公園のひとたちは全員生命活動を終えるだろうし、……たぶんだけど、僕とあなたは一生仲よく人犬のつがいとして生きることになるだろうね」


 南美川さんは心底、わからない、といった顔をした。


「どうして、そうなるの?」

「それはあなたの弟がそういう趣味のひとだからだ……妹も、かな。ただ、わからないこともまだ多いんだ。そういうことを含めて、僕はしばらく、できることをやってみるつもりなんだ」


 僕はちょっと笑いながら、南美川さんの頭を撫でた。足音は、まだ遠いとはいえ、近づいてくる。葉隠さんのちょっと焦ったような責めてくるような視線。僕はお辞儀するかのようにちょっと頭を下げて、だから、……伝えることを、南美川さんにはいま伝えきってしまおうと思った。核心だけを――それ以上のことをゆっくりと話すことは、たぶんもう、……解決するまでできないから。



「僕は、あなたと人間として生きたい」



 え、と南美川さんが口をひらいた――それを見届けてしまう前に僕は、口のなかで素早くつぶやいた。……サウンドリィ、と。

 予想があっていればここでひらかれるし逆にもしこれでどうにもならかったらもうどうにもならないが――。



 予想は、やはり当たった。

 ……檻には風穴のような、そして同時に奇妙な穴が空いた。

 まるで世界の物理法則を無視したかのような、唐突な、ぽっかりとした穴だ。

 ひとひとりくらいだったら、立ったまま通り抜けられる大きさの穴。その向こうには公園の景色が当たり前に広がっている。しかしよくよくその穴のふちを見ると――まるでオールディな電気がパチパチと跳ねるかのように、Neco言語の飛び交う、白いような黒いような緑色のような亜空間が、広がっているのだった。

 そしてその空間からびゅうびゅう風が吹いてくる。回路が安定していないということだろう。この世界の隙間から――データが漏れ出てしまっている、とでもいおうか。


「えっ、穴が空いた……」

「なんや、これ」


 南美川さんも葉隠さんも、驚いている。

 ……僕は南美川さんに向かって、語りかけた。


「そういうことだから。……僕はこの世界でたぶんこういう力があると思っていたんだ。だから――南美川さんをこの檻から無理やり追い出すことだって、できたんだ。……でもそうしなかった。……南美川さん、あのさ。あなたと話せて、よかったよ」

「どうして、こんなときに、なに言ってるの、シュン」

「だから――またね、南美川さん。……あの、葉隠さん。すみません、南美川さんをほんとうに、頼みます、……泣くかもしれませんがぜったいに最後まで歩かせてください」


 僕は、葉隠さんに南美川さんのリードを渡した。

 葉隠さんは、神妙にうなずいた。もしかしたら、このひとは。……どちらかというと僕のがわに近い人間だったのだろうなと、ほんとうに、……僕らしくないことを、また思った。

 よくぞ引き受けてくれたものだ――もちろん南美川さんをほんとうに歩かせきってくれる保証はないし、ただこのあといじめるだけという可能性もゼロではない。僕は自分が自分自身を疑うのとおなじように、つねに他人のことも疑っている。

 でも。いまだけは。……信じないと、はじまらないんだ。物理的に――ひとが死ぬ、僕も南美川さんも、……人間では、いられなくなる。



 信じる、ということは、こんなにも心に重い。ほんとうならば。……叫んでこのまま投げ出して、ひとりにして、ひとりにしてくれ、と頭をかかえて赤ん坊のように泣いていたいんだ。



 でも、僕の目の前では――葉隠さんが僕からバトンのようにリードを受け取って、南美川さんが、……相変わらず僕にすがろうとしてきている。


「南美川さんが泣いたら、見ものやね! ほら。行くで。……南美川さん」


 葉隠さんは、ぐいとリードを引っ張った……やだっ、痛い、と南美川さんが声をあげた。わがままやなあ、と葉隠さんはもっと強くリードを引っ張った。南美川さんは僕のほうを必死に見ているが、引っ張られたリードには、……ついていくしか、ないようだ。

 僕は思わず穴からいまにも外に出ていこうとする葉隠さんに、声をかけた。


「あの、もうすこしだけ、……優しく」

「南美川さんに優しくしたら、私にはなにしてくれはるの」

「……え?」


 葉隠さんは、奇妙に意地悪そうな顔をしている。


「……冗談。私が自分で引き受けるって決めたことや。でもなあ、来栖さん、……お茶くらいごちそうしてな」


 葉隠さんは、なにを言っているんだろう――そう思ってなにか言葉を返す間もなく、葉隠さんは南美川さんのリードを曳いて出ていく。

 僕はその背中に声をかけた。


「あの。葉隠さん。……お茶くらいなら、苦手ですが、大丈夫です」

「それ、大丈夫でないやん」


 南美川さんが四足歩行で歩いていく――僕のほうを、見る、……見ている。問いかけてくる、悲しそうに、理解できずに、理不尽を抱えて……そのまるで人犬らしい視線から僕は逃れたくなるけれど、……そうしない。


「シュン……どうして……シュン……」

「南美川さんを、信じているよ」


 僕は、ほらまた、……柄でもないことを。


「だから、南美川さんもどうか僕を――」



 その続きは、言えなかった。

 あまりにも、おこがましすぎて。


 だから、僕は。

 ふたりが風穴を通ってこの檻からぶじ出ていったことを確認すると、すぐに別のコードを唱えて、その風穴を、閉じた。



 ばたばた、と。ひとの気配はすぐそこまで来ている――どうやら、ぎりぎり間に合ったようだ。

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