南美川さんを、起こして

 ……手筈は、整った。

 その準備のあいだ。最初から最後まで、南美川さんは眠っていた――よかった、それでいい、……それがいい。


 僕は最後に、葉隠さんに対して、よろしくお願いします、と言った。

 葉隠さんは――黒い髪に手をやって、どこか神妙な顔で、うなずいた。



 僕は、南美川さんの近くに、戻った。寒いだろうと思う。こんな冷たい地面のうえに、ほとんど素肌のままのその身体を晒していては。犬としての、毛の生えた三角の耳も前足も後ろ足も肉球も尻尾も、身体をあたためるという点では、まったく役に立ってはくれない。

 南美川さんは寒いのを嫌がる。もともと寒がりだった――とかいうわけではないのだろう、もちろん。調教施設でもとことん寒い思いをしてきたはずなのだ。それこそ、生命の危機に晒されるくらいに。でもそれでも生きてきた。生き延びて、しまったのだ。それが南美川さんにとってよいことだったのか悪いことだったのかは、わからない――けれど。


 そのしるしとして、南美川さんは一見落ち着いているようにも見える、でも、よく見るとすこし、顔全体をしかめたような、苦しそうな表情で――眠り続けている。これが南美川さんの、……きっといつもの睡眠なのだ。僕の部屋に来てからの、あたたかい睡眠ではない。このひとが犬になってからは基本的にこうやってずっとずっと――。



「南美川さん」



 僕は、その眠りの穏やかさを、このひとにとってのある種の、……安寧を、承知のうえでその全身を、揺すった。ううん、と南美川さんは呻く。このひとは案外寝起きが悪い。でもいまはだからといって優しく待つことはできないのだ――僕はさらに大きく、思い切り、このひとを、揺さぶった。



「南美川さん。起きて」



 南美川さんはまたしても、呻く。不満そうに。でも人間に起こされたら起きないといけないという事実が、まるで本能のようにその心に刻印されているのかもしれない。とりわけ寒いところでは、調教施設のことを思い出して、その本能めいたものが強くなるのかもしれない。

 ぐずる赤ちゃんのように呻き続けていた南美川さんは、こちらがちょっとびっくりするほど不意にぱっちりと目を開けると――そのふたつのどんぐりみたいな、まるい瞳いっぱいに、僕を映した。そのようすは愛らしくて、でもこれからのことを思えば、そんな想いじたいも切ない。

 自分を起こしたのが僕だということが、ほかのだれでもないということがわかったのだろう――南美川さんはぱっと表情を明るくした。眠っているあいだはだらりと垂れていたばかりの尻尾が、その感情に合わせて、ぴん、とかわいらしく、まるまった。……柴犬モデルとしての尻尾。南美川さんの感情を――容赦も配慮もなく、そのままあらわしてしまう、……残酷で、でもだからかわいい、尻尾。それにともなって、……眠っていたあいだは萎れていた耳も、ぴん、と立つ。

 僕を目にするだけでこのひとは嬉しいと思ってしまうんだなと――そんな事実がいまさらのように僕の心に満たされる、満たされる、……それは汚いものだと重々わかっているのに、まるで、どこか、……澄んだ透明なきれいな液体みたいに。でもそれはけっきょくのところ、ほんとうは――どうしようもない穢れたものでしか、ないのだから。



「シュン……おはよう」

「おはよう、南美川さん。それでね、起きてさっそくなんだけど、南美川さん。もう行こう」

「……え? 行くって、どこに?」


 南美川さんの表情も尻尾も耳も、すこしだけだらりとした。でもそれは眠っているときみたいにリラックスしているのではない。……不安がっているのだ。そんな機微さえ――僕は、わかるようになってしまった、こんなにも、……残酷なことに。


「檻の外に出てほしいんだ。今日も、ノルマがあるだろ? それをこなさないと」

「ノルマがあるのは、わかってる……わかってるわ。今日も、わたし、がんばるもの。……でも、檻が……」

「檻はいまから僕が穴を空ける。だから、……行ってほしい」

「……なによ、その言い方。シュンも、いっしょよね。シュンは、わたしとずっと、いっしょよね……?」


 ……そんなことは。

 約束した、覚えがないが。

 そうか。このひとのなかでは、もうそういうことになっているんだ――僕と、……来栖春という人間と、ずっといっしょ。当たり前のように。いつだって。生活においても。そしてたぶん、それ以上のことにおいても。

 ……そんな、無防備な、全幅の信頼が。いまこのひとにはある――。



 南美川さんがそのように思っているという事実は思いのほか僕の心の中心をつらぬいた。



 そうか、犬、だもんなあ。

 南美川さんは、人間だけれど。……でも、いまは犬。

 すがるように、つくられてしまった。どんな動機であれ、優しく接してくれる人間がいたならば。その存在に、すがって、すがって、すがって。それがよいのだと、それだけが幸福なのだと。……そう思わされるくらいに、心さえも加工される。それが、人間を、ヒューマン・アニマルの人犬にするということなのだろう。


 南美川さんは調教施設では反抗的だったというけれど、でもだからといって――すがりたく、なかったわけでは、……ないのだろう。聞くも過酷な調教のなかで――。



 ……だから。

 いまこれから僕がこのひとに告げることは、ほんとうに残酷なことなのだろう。

 わかっている。わかっているからこそ――僕はためらいなく口を開いた、……告げるために。

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