具体的なことを

「そないなふうに、お願いされたら、……駄目とは、言えへんやろ」


 葉隠さんの、その言葉は。僕に対してというよりは、ひとりごちているみたいだった。


「わからへん?」

「……なにが、でしょうか」

「わからへん、のねえ」


 葉隠さんは疲れたかのように、でも、ちょっと違うような――そんな意味深なため息を、またしても、ついた。


「……よう、わからんですけど。私が南美川さんを連れて、逃げれば、ええのね。そうすれば、私も助かる、このわけわからへん世界から、私も助けてくれはる……信じて、ええんやね」

「それは、もちろん。お約束します。……このわけのわからない世界から、葉隠さんも救う、って」

「そう。やったらね。来栖さんのことをも、助けてあげへんことも、ないわ」


 どないすればええの――葉隠さんは、そう訊いてきた。

 ……引き受けて、くれるんだ。

 だったら、約束は守ろう。なんとしてでも――この世界を、どうにかしよう。そして結果的に、葉隠さんのことを助ける。それが、……南美川さんを人間に戻すことに、直結する。

 ありがたい、ひととかかわるのはやっぱり、……肌の表面にねばつくみたいに嫌いだ、苦手だ、でも、その居心地の悪さと気持ち悪さもたしかに感じながらも、……やっぱり、ありがたいと思った。

 引き受けて、くれることが――だから。


 僕は、そっと頭を下げた。……こんどは、土下座みたいにはならないように、気をつけたけれど。でも。……やっぱり、そうするべきだと思って、深々と。


「ありがとう、ございます。かならず、……助けますから」


 そう――葉隠さんは、さっきからやけに、そっけない。そのことが僕は、怖い。人間の心は、怖い。けれど。けれども――。

 もう陽は明けはじめている。時間は、無限に残されているわけではない。だから。だから。僕は。……頼もうと、思えたんだと、思うんだ。



 僕は葉隠さんに説明した。具体的なことを。歩数計の見方。データの見方。一日、何歩歩けばいいか。南美川さんのこの五日間のようす、体調。南美川さんがいかに訴えてきても、けっしてその歩みを止めさせてはいけないこと。……心を鬼にして、歩かせること。一日のうちにごはんも与えてほしいこと、いま南美川さんはどれだけ食べられるのか、そしてどれだけ、……食べられないのか。ごはんを食べたくないと訴えても、食べさせてほしいこと。そうしないと、……歩けないし、やっぱり生命維持的にも、危ないから。そうして一日がぶじに終わったら、次の日のためにも全身のマッサージをしてほしいこと。そのやりかた。そして、葉隠さんには難しいかもしれないけれど、……なるべく南美川さんのほしがる

 

 伝えることがとても多くて、うまく伝わるか不安だった。しかもこの短時間の、僕の下手な説明で。

 でも葉隠さんはすんなり理解してくれた。上着のポケットから小さなデバイスを出して、軽くたたたとメモして、具体的な数字やなんかについても反復してくれた。……よかった。安心だ。

 そんな僕の気持ちが、どうしてだか伝わってしまったのだろうか。だいじょうぶよ、私、頭ええから。これでも国立学府の学生やったんやもん――葉隠さんは、やはり疲れたように、……そうつぶやいた。なんにも嬉しそうでも誇らしそうでもなく。



 そして、葉隠さんは。私これ聞く権利あるよね――そのように前置きして、口を開いた。


「それは、なんのためにやってはるの」

「南美川さんを、人間に戻すためです」

「……ほんとに、いけずなひとやね。来栖さん。あともうひとつ、約束してくれへんか」

「……はい。なんでも」

「私が、ぶじに頼まれたように南美川さんの散歩を終えたら。……ほんとのこと、聞かせてくれへんか。どうして南美川さんのことゆるしてへんのにゆるしてそうで、ここまでのことしてあげて、どうして、どうしてなんって――」

「……お約束、します」


 その、約束は。

 ずっしりと、重たかった。……僕の心に、そして、もっともっと深い、過去において。


「こんなん、やってあげるんは、私としてはありえへんことなんやからね。その意味を来栖さん、噛み締めてほしいわ。……それでこの世界を救って」

「わかりました、それは、もちろん」

「私、南美川さんのこと、いじめてまうかもしれへんよ?」

「……だったら、約束してください。僕は、この世界をどうにかしますから。葉隠さんと、……ほかのみなさんのことも、かならず、助けますから。だから。南美川さんのことをいじめないって、約束してくれませんか」


 葉隠さんは、僕の顔をまじまじと見た。

 そして、不自然なほどの間があって――。


「ええよ。でも、……来栖さんがどうにもできへんってわかったら、私、その場で、南美川さんのこと、……殺してまうかもしれへんからね」



 その言葉、気持ちを。僕が、咎めることはできない。……南美川さんに大学時代にいじめられていたという葉隠さん。高校時代に南美川さんにいじめられていた僕が、……いったい、なにを、言えようか。

 だから、わかりましたと――僕はそう言葉で返すかわりに、うなずいておいた。ただその言葉を心に刻み込んでおくことだけが、……いまできることだと、思った。

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