頼みごと

「ここから、逃げてください」

「はああ?」


 葉隠さんは、素っ頓狂な声を出した。


「……逃げろ、って。えっ。なんなん、それ。なんですか。どういうことですか」

「だから、その、ですね。葉隠さんは、いますぐこの檻から抜け出て、逃げてもらいたいんです。そのまま逃げ続けてほしい。……いろんなひとたちがいるし、公園での逃亡生活は、大変だと思いますが」

「えっ、えっ。なん、なんね、だって、逃げるったって。待ってな、聞きたいことたくさんありすぎるけど……まずどうやって逃げるんよ。この檻、びくともせえへんで」

「それは、僕がこれから、……どうにかします。一晩中、やっていたことがあって……ちょっと、試してみたいんです」

「……はああ?」


 たしかに、そういう反応にはなるだろう。水晶でできた檻。叩いても蹴っても、びくともしないだろう。そんな檻から逃げ出してください、だなんて言われれば、どういうことだ、と訝るのは当然のことだ。

 ……でもこの世界は通常の世界ではない。

 通常の物理法則や常識は、通用しない――そしてもし、僕の推理が、合っていれば。……僕はこれから、この檻を、葉隠さんとそして、……南美川さんひとりくらいなら通り抜けられる程度の穴を、空けられる。

 空けられる、はずなんだ。

 逆に言えば。これでもし、空けられなければ。そこでおわりだ。おしまい、すべてが。僕の命、僕の人権、僕の人間としての人生は、ここで。それは結果的に葉隠さんもだし、南美川さんもそういうことになるだろう。……できることがあるとすれば、いわゆるあちら側の――司祭、となってしまった影さんたちに懇願してその奴隷になる、ということくらいだが、……そうなって生き延びたところで、けっきょく人権は台無しになる。そのはずだ。そのはずなんだ。南美川真と、南美川化の計画が――僕の読んだ通りで、あるならば。


 でも、たぶん、だいじょうぶだ。……手ごたえは、あった。

 僕だってほんとうは今晩眠ったほうがよかった。これからサクリィゲームとやらの、ふざけたような遊びにおいて、なにが起こるかなんてわかったもんじゃない。体力は、なるべく温存しておくべきだった。それもわかっている。わかっていた。でもやらざるをえなかった――じっさい、このアクションは、夜しか起こせないアクションだ。それは今後も、……そうなるだろう。


 しんどさがなかった、わけではまったくない――眠りたかった。ほんとうならば、すこしでも多く。いまこの瞬間、心身ともに自分が疲れきっていること、パフォーマンスがすさまじく落ちて、世界がどこかぐらぐらと揺れて不安定に見えることを、自覚、している。


 でも、それでも成し遂げなければいけないこと――。


「それで、檻に穴でも空くって、いうん?」

「……つまり、そういうことです」

「どういうことよ……それ、正気なんですか。来栖さん」


 葉隠さんは、理解できないといったふうに笑った。


「いまはまだ、それも説明できません、……うまく説明できる自信もないです、すみません。でもとにかくこれから僕のやる方法で葉隠さんたちが出られる穴が空くはずだから」

「……たち、ねえ。それは、……だいじにだいじにしてはる南美川さんも、出ていくって、そう捉えてええんですか」

「そういう、ことになりますね。……頼みたいことというのも」

「南美川さんの、ことやねえ」


 葉隠さんは、ため息をつくみたいに――やけにしっとりと、そう言った。

 そして、ちらりと、視線を移す。……やっぱり、僕の後ろのまだ眠り続けているままの南美川さんを、見ている。……じとり、と。


「……そうなんです。すみません」

「どうして、謝るん」

「……いえ。でも、ほんとうに、葉隠さんにしか……頼めない、ことなんです」


 葉隠さんの表情が、すこし変わった。なんだろう。いま、僕はそんなに変なことを言っただろうか……いや言っているか。急に、檻に穴を空けるからって、しかも南美川さんのことを頼む……だなんて。


「……お願いします。変なことを頼んでいるのは、わかっているんです。でも、南美川さんのことを、頼みたいんです。どうか、南美川さんを連れて、逃げてほしいんです。逃げ続けてほしいんです。南美川さんは……いま毎日、歩き続けなければいけないんです。そのノルマを、……葉隠さんが、僕の代わりに達成してほしいんです。すみません。すみません。ほんとうに……申し訳ないんですけど、でも、……でも、頼めませんか、お願いします」


 葉隠さんの反応があんまりなくて、ずっと冷たい雰囲気のままだから、対照的に僕の言葉は速く、過剰に熱っぽくなる。みっともないと、わかりつつも。

 そして、僕は、地に両手をついた。

 お願いしますと頭を下げたら――それは自然、土下座になった。ああ僕はそういえば土下座には慣れていると、……いまさらのように、そんなことを実感した。


「どうして、私が南美川さんなんか、面倒見ないといけんのか、わからへんけど」


 そんな声が、……降ってきて。


「顔、上げてな。……来栖さんには、まいります」


 なにが――わからないけれど、僕は頭をあげた。葉隠さんはどこか明後日のほうを向いていた、……そっぽを向くかのように。

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