ウェキャップ

 ……でも。



「……いやだ」



 感情は、正直だった。

 理屈は、わかった。……でも。


 服を、脱ぐなんて、いやだ。

 当たり前じゃないか。決まってるじゃないか。

 こんな、教室で?

 クラスメイトたちの目がある前で?

 ――ありえない。

 そんな劣等者みたいなこと。ありえない。



 だから、アンタは劣等者でしょって。

 つまり、南美川さんが言っていることは、そういうことなんだろうけれど――。



「……いやだ……やりたくない、です……」



 僕は気がついたら、正座した制服の太ももの上に、涙をぼろぼろ流していた。

 一滴、一滴が、染みをつくる。

 もう、止まらないようだった。


 ……視線を下に向けているから、南美川さんたちの反応は、わからない。

 早くしろよと、この直後の瞬間にでも、怒鳴られるのではないか――その事実が、その悔しさが、……その恐怖が、僕の涙腺をますますだめにして、ぼろぼろ、ぼろぼろと、……使いものに、ならなくさせる。


 僕は。

 すがりつこう、と思った。

 非常事態にはそうしろって言われている、社会常識。

 警察や消防への通報と同等の、その権利。


 ……受け入れてもらえるかは、わからない。

 でも――訴えたい。

 だってこんなの、おかしい。おかしいじゃないか。

 僕は服を脱げなんて命令に従いたくない――!



 すがるのだと、自分でも自覚があった。



「……ウェキャップ、ネコ」


 それは、この社会の人工知能に呼びかける合図。

 いつでもどこでもすべてを見聞きして、判断してくれる、社会的インフラ。人間はいつだってどこだってこの人工知能に頼ることができる。

 だから、いざとなればその名を呼べと――ずっと教わっている、その名前。



 ……外で、ネコに、こうして呼びかけたことは、あんまりなかった。


 家では、生活に必要な場合、たとえば玄関の鍵を閉めるとか、部屋の電気のスイッチとか、そういうときには、当たり前に呼びかけていたけれど。あと、母さんや海なんかは、ネコのかわいらしい声とおしゃべりして、楽しんでいるようだったけれど。あいにく、僕にはそういう趣味はなかったし。だから、それこそ、朝と夜に部屋の電気を消すときくらい。そのくらい。


 外だと、あんまりそういう機会もなかった。学校では基本的にネコ係というものが定められていて、電気をつけたり消したり、避難訓練のときのネコとのやりとりを担当したりする。……僕は人前で声帯を使ってしゃべることがそもそもあまり好きではなかったから、ネコ係になることはなかった。たいてい、ネコ係は、自分の声に自信があるやつや、はきはきしゃべれるやつが、なるんだ。



 しいて言えば、だから助けを求めたいようなとき、ということになるけれど……ウェキャップネコ、と呼びかけたのは、記憶では二度しかない。


 いちどめは、すごく小さなころに、家族五人で出かけたとき。

 ショッピングセンターのアイティ・キッズスペースで、海を見ててねと言われて、ベンチで待たされたとき。僕よりずっと小さな海が、僕がやめなよと言うのも聞かずに、走り回って、こてんと転んでしまった。

 最初は、あーあ、だからやめなよって言ったのに、と僕はぶつくさ言っていたけれど、やがて転んだまま動かない海のことが、こわくなって、まわりの子やおとなのひとたちも集まってきて、こわくなって……思わずその瞬間小さな子どもなりに習ったばかりの、ウェキャップネコ! という呼びかけを、叫んでいた。

 ……けっきょく海はネコの判断ですぐさま近くの小児病院に運ばれた。家族での買いものは中止。病院に行くほどじゃないんじゃないと姉ちゃんは憮然として言っていたけれど、ネコの判断は、とにかく安全確保を最優先に、ということだった。多少、おおげさでも。

 けっきょく、大事はなかった。おでこの表面が、ちょっとだけ擦りむけてしまっただけだ。全治一日とか、そんなレベルの。でも頭を打っていたから、念のため来てくれたほうがよかったと、医者はおおらかな笑顔を見せた。……ネコ社会というのは、いいですね、子どもが安全だ、と言って笑ったそのときのあの医者の笑顔を、なぜだか僕はずっと覚えている。

 緊急事態だったんだな、とあとで思い返して、ぼんやり思った。そして、ネコはそういうものを、ちょっとおおげさなくらいに、ちゃんと対応してくれるんだ、と。


 にどめは、中学一年生のとき。

 何人かのクラスメイトが、僕にちょっかいを出してきた。いや、ちょっかい、というのはまだ好意的な言いかたかもしれない。悪意をもった、からかい、あるいはいじめの兆候、とでも言おうか。

 まだ、入学してひと月ほどしか経っていない時期のことだったと思う。僕は新しい担任との面談を終えて、教室に戻った。かばんを置きっぱなしだったのだ。旧時代の教室ならともかく、現代は盗難など基本的には不可能だ。いつ、どこだって、ネコの目が光っているのだから。

 だから、荷物はぶじだった。

 その代わり、数人のクラスメイトが、にやにやしながら僕の席を取り囲んでいた。

 かばんが、取れない。でも、どいてよ、と言う勇気は僕にはなかった。それを見て彼らはまたしてもにやにやした。僕がちょっとでも動くと、その動きに合わせて、さっと両手を広げて通れなくさせる。……おもしろがっているのは、あきらかだった。

 遊びに行こうよ、と。

 そのうちのひとりが、僕にまるで誘いかけるかのように言ったのだ。

 もちろん、言葉通りの意味ではない――僕はとっさに思い出した。ネコの目が届かないようになんらかの改造をほどこした、改造エリアというものが、世のなかには存在するのだという話を。そういうところに連れていって、いじめをするというニュースを、……聞いたばかりだった。

 ぞわっと、背筋になにかが走った。

 僕はほとんど泣きそうになりながら、思わず言っていた――ウェキャップ、ネコ、と。

 ……ネコはとりあえず責任者を呼んだほうがいい状況だと判断して、職員室に連絡してくれたようだ。

 すぐに、担任の先生をはじめ、何人かの先生が駆けつけてくれて――彼らは僕には舌打ちを、先生たちには嘘みたいな愛想笑いを残すと、そのままぱたぱたと、どこかへ走り去って消えてしまった。

 ……それ以来、彼らが僕にちょっかいを出してくることは、なかった。もっとも、僕はそのあとの中学生活でも基本的にずっとひとりで――彼らは仲よくしていて、クラス全体が、そんな感じで、……ただ危害を加えられないというだけで、あとはどんよりとした中学生活ではあった、けれど。



 ……だから。

 そういうことも、いままで、あったから。

 これは、緊急事態なんだって。

 僕はネコにすがろうと思ったってこと、だけれど。




 ニャン、と学校にもいるネコの、小さな女の子みたいな、かわいらしい声がした。

 ネコが、反応したのだ。



「助けて、……助けてよ。これから、がんばるから。優秀に、なれるように。だから……こんな状況、やめさせてくれよ。服を脱ぐなんて劣等者のやることだろ――」

『検討ちゅーです、……にゃんっ』


 すぐに、検討とやらは終わったようだ。


『来栖春さんのデータを見ましたけどお――』


 かわいいけれど、抑揚もあるけれど、やっぱり、機械的な声。

 ……人間的な判断なんて、なんにもしてないんだろうなって思わせる、そんな、人工知能の声。



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