剥ぐ

 端的に、意味が呑み込めなかった。

 というより、呑み込みたくなかったんだと、思う。


 とにかく耳が頭が拒否していた。

 その言葉の意味するところを、受け入れまいと。



 直後、僕の返した反応は、怒りとか悲しみとかの単純ながらもエネルギーに満ちた感情をあらわにしたものではなく、かといって、拒絶や抗議などの、一種の理性や意思に満ちた反応でもなかった。

 そんなふうに返せるのならばどんなにかよかったことか。

 そんなふうに、返したかったのに――じっさいに僕の返した反応といえば、……息を吐くように、弛緩させるように、へらっと笑う、そんな、……自分でも自分自身の弱いところをいますぐ吐き出して唾を吐きかけてしまいたいような、そんな、反応だった。



 えっ、と。宙に浮いたような僕の媚びたような声が、……この空間に、だれにも拾われることなく、漂う。



「……どういうこと? いま言ったこと――」

「そのまんまの意味よ。服を脱いで、裸になりなさい。……ひとつ残らずね」


 南美川さんは、もちろんのこと。

 ほかのクラスメイトたちも、僕を見ている。

 わくわくして、僕を見ている。


 これから始まる、一種の余興に――優秀者としてがんばらねばいけない日々の楽しさを見出すように、……ほとんどのクラスメイトが、ここにいる、帰る気配はない。……南美川さんの婚約者でもある彼だけは、自分の席について、自習を開始したようだったけれど。


 でも、でも、だから、ほんとうに、ほとんどのクラスメイトは。

 粘るつもりだ。

 南美川さんのはじめた、彼らにとって楽しいことを、存分に見てから帰るつもりなのだ――。


「いまわたしが言ったこと聞こえたでしょう? そこで裸になれ、って言ったのよ」

「……どうして」


 かぎりなく、愚問であることはわかっている。

 こういったことに、どうしてもなにも、ない。そこには正当な理由はない。そこにはまともな目的はない。

 人権制限者や人間未満がされていることといっしょだ。

 優秀な者が、劣等な者を、おもちゃにする、もてあそぶ――そのことにどうしてだなんて、……問える社会ではないだろう? そんなの、……当たり前、すぎて。


「いつまでも、とぼけてないでよ。さっさとやって!」


 南美川さんの、怒鳴り声に近い言葉に、反射的に肩が大きく震えた。そのようすを見て何人かがくすりと馬鹿にするように笑った。僕だって、僕だって、肩を震わせたくなんかない。それなのに。それなのに――勝手に。僕の、身体が、……勝手に反応するだけなんだ、だから、そんな、……そんな馬鹿にするような反応を僕に向けるなよ!


「早くしろよ!」


 南美川さんは、苛々したように言うと、今度は僕の後頭部をヒールで蹴った。

 一瞬ののあとに、鋭い痛みが走る。


 この女子に。南美川幸奈に。……南美川さんに。

 従わないと、大変なことになる……。

 僕は、そのことが、だんだんわかりつつあった。

 頭でも……情けないことに、身体全体でも。

 わかってる。でも、さ。でも――でも。



「……いやだ」



 そう言った瞬間、またしても、僕の身体は僕のプライドに従ってくれないで、僕の目からは、涙がぼろりと落ちた。

 そのようすを見て、何人かのクラスメイトは、ぎゃははと品がなく笑った。……こういうことを通じてクラスメイトどうしというのは仲よくなっていくんだろうな、なんて、まるで現実ではないみたいに、もやのかかった頭で思って、……その瞬間、また涙がぼろ、ぼろりと落ちた。……いやだ、いやだ……。



 すぐに蹴り飛ばされるかと思った。

 でも南美川さんはそんなことなかった。

 にっこりと、笑ったのだ。ああ。わからない。……このひとの、判断基準がわからない。

 すぐに暴力をふるう。すぐに脅してくる。でも、すぐにそうするだろうと思うときにかぎって、こうして笑顔を向けたりしてさ――そうして僕は、もっとひどい目に遭うんだっていう、つまり、……つまりは、そういうことなのか。



「いいのよ、シュン」



 彼女は、相変わらず。

 僕にとっての、はるか高みで。すらりとした長い脚で立って、おなじくすらりとした腕を、両方とも腰に当てて。



「いやだって思うのは、正常な反応だもの。そんなね、もちろん、みんな裸になんかなりたくないわ。それもクラスメイトの前でね」


 諭すような、むしろ慰めるような、そんな猫なで声。

 かえって、……おそろしい。僕の、理性とプライドに反して、目から止まらない涙と、さっきからぞわぞわ、ぞわぞわと、背中を全身を責め立てるような、……悪寒、恐怖。


「だからみんな、がんばるのよね。劣等にだけは、ならないように。できるだけ優秀になれればいいわ。でもひとには能力の限界というものがあるでしょう? だから、優秀になれないなら、せめてふつうになれるよう、がんばるの。……社会のみんな、そうしているの」


 なにを、……言いたいんだ。


「でもおまえは違うでしょう? 高校生にもなって、自分の能力が理解できずに、分不相応な集団に入ったのだわ。それが劣等な証拠よ。おまえとおなじ程度の能力の人間は、社会にいくらでもいるわよ。この学校にだっているわ。でもそのひとたちはね、……ふふっ、最低限わたしは人間なんだって認められるの――だって彼らは自分の分を知って、普通クラスに進学したわけでしょう? それを、……シュンは、自分を、勘違いして」


 だから、だから、だから……なんだって、いうんだ。


「……そのことじたいが劣等の証拠よ。わたし、おあいにくなんだけど、劣等者って嫌いなの。でも、わたしは劣等者の面倒もよく見てあげるのよ? ねえ、そうよねーえ、狩理くーん。わたし、幼稚園のときも小学校のときも中学校のときも、高校生になってもずうーっと、とっても、劣等者の面倒見がいいわよねえ?」


 彼は、こちらをちょっと振り向いた。

 そして、ああ、と気のなさそうな同意をすると、すぐに自習に戻った。

 ……でも、南美川さんは、それで満足なようだった。

 僕に、さらに満面の笑みを向ける――。


「だからね、わたしは最終的には、劣等者に感謝されてもいいことを、しているのよ。よかったわね。シュン。……わたしがそういう優しいひとで」


 くすくす、と南美川さんは笑うが。だから。なにが。……いったい、それがどういうことで、たとえばなにかだったとして、じゃあどうして、それが、僕がいまからされるような、仕打ちと、結びつくんだ?



「わたしは一枚一枚、優しく剥いであげるのよ。……劣等者の勘違いを」



 僕は、正座したまま動けない。

 逃れられない。叫ぶことさえ、できない。

 ……この人間を見上げてひたすら、喉をからからさせて、同時に得体の知れない涙をぼろぼろ流すことしか、できない。



「……だから、手始めに、服をぜんぶ脱げって言ってるわけ。自分の立場ってものを理解する、いい機会よ。……わたしむかしからずっとそうして劣等者にしてあげていたんだもの。感謝してほしいわ。ねえ、シュン――わかったでしょう? ねえ、シュン? ……お返事は?」



 ……はい、と掠れた声を出すので、せいいっぱいだった。

 僕は、どうやら。

 とんでもない、勘違いを。……学校をとりあえずやりすごして、あとは勉強をがんばろうだなんて、そんなことからはじまって、とてつもない、勘違いを、していたようで――いやだいやだ認めたくないと、思っても、……いま目の前で起こってることは、事実、……現実。

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