コントラスト

 家に帰ってから、家族といたほうが楽だった。


 きょうは、ということだ。いつもはそんなこと思わない、ぜんぜん思わない。こう言ってはなんだけれど、僕ももう高校生なわけだし、たいして仲のよくない家族といっしょに過ごすよりは、部屋でひとりで過ごしたほうが気楽だし好きなこともやれて楽しい。

 でもきょうだけは、たとえろくな会話がなくとも、家族でいたほうが楽だった。気が紛れる、というのだろうか。


 部屋にひとりでいると、叫び出しそうになるのだ。頭を、ぐちゃぐちゃに掻きむしりたく、なる。じっさい後頭部の髪の毛はすこし掴んで強めに引っ張ってみた、……きょうは、すくなくともきょうのところは、それだけで済んだ、けれど。



 家での時間はいつも通りだ。いままで通り。昨日とも、一昨日とも、なにも変わりない。一昨日までは自分が劣等者である可能性だなんて夢にも見ずに過ごした。昨日はその可能性に思いあたって、心がざわざわしていたけれど、でも、……それはいつも通りに好きなことをやることで、どうにか追いやってしまえるほどのものだった。


 そう、家での時間はいつも通り。

 閑静な住宅街。家のなかも、静かだ。

 むかしからこの家でうるさかったのは海だけだ。でもその海も、もう中学生になって、相変わらずよくしゃべりはするけれど、でもむかしみたいに大声をあげて走り回ったり遊んだりしていることは、ない。それは、そうだ。海だってもう小さな子どもではない。

 ……だから。この家は。いわば、来栖家は――基本的には、いつも、静かなのだ。母さんと海がよくしゃべるというだけで。あとは、いつも、いつも、……静かだ。

 静かに、好きに、過ごせる。それがたぶん、……うちの特徴でもあると思うんだ。


 いつもはそれで助かっていた。

 僕はうるさいのは好きじゃないから。

 けれども、きょうは、きょうだけは――夕方に帰ってからずっと、その静かさが、……むしろ僕の内面のうるささを、強調して、うるさいうるさいって、ずっと思ってて――。



 ……なにがうるさいかって。

 僕があんな扱いを受けたことが信じられない。

 南美川さん、いや、家でいるとき心のなかでくらい言い直そう、……南美川幸奈。あいつに受けた、あの仕打ち。

 なにをさせた? 僕に対して。

 ひどいことをさせた。ひどいことって。ひどいこと――具体的に思い出そうとするとまた叫び出しそうになるただ、……僕は、あの人間を、ひたすらに見上げていたことだけは、よくよく感覚として覚えていて。とにかくこのひとに従わなくちゃ――そう思った自分の心の動きだって、よく、……よくよく、覚えていて。


 そういうのがぜんぶぜんぶうるさいのだ。

 どこかへ、やってしまいたい。なかったことに、してしまいたい。


 けれども僕の記憶は感情は感覚はそうはさせてくれない。あの人間に、土下座させられ、ハイヒールを犬みたいにとってこさせられ、足で撫でられ、敬語を使わされた事実を――僕はそうだ、ほんとうはこんなにも明確に、……覚えてる、って。



 だから自分の部屋でひとりでいると発狂しそうだった。家族といてもなにも解決するわけではないけれど、すくなくとも、自分以外の存在がそこにいるだけで思考がすこし紛れてくれた、それだけ、そう、たったそれだけのことで――。




 歯磨きの一連の動作を終え、リビングに戻ると、母さんがすぐさま話しかけてきた。


「春、あんまりうるさくしちゃ駄目よ。あんなふうにどたどた歩かないの」


 僕はそのまま、キッチンに行くと冷蔵庫から水を出し、透明なコップに注いで飲む。母さんはそんな僕のあとをついてくるみたいにやってきて、キッチンの出口に佇んでいた。

 たぶん母さんは、僕が水を飲み終わるのを待っていたのだろう。


 途中で海が、思い出した思い出したやんなくちゃ、と僕にとっては意味不明なことを言いながら、歯ブラシをくわえたままばたばたと洗面所に向かった。母さんはそのときには振り返って、こーら、海、走らないの、と咎めた。海は、はーい、と素直に言ったあと、洗面所で蛇口を捻って歯磨きの一連の動作を終えていたらしいが、戻ってくるときにひとこと余計なことを言った――さっきどたどた歩いてたひとが、いたんですけどねー、などと。こら、そういうことも言わない、と母さんは海を咎めてはくれたけれど、……ほんとうに、いくつになっても、ずっとそういうところのある妹だ――なんだか妙に僕に対してトゲがあるというか、打ち解けないというか、それはもちろんこっちにも非はあるんだろうけれど、……姉ちゃんに対してと僕に対して、懐いているかどうかも含めて、むかしからまったく違うあの妹。

 海はそのまま、リビングのソファに落ち着くと、あー、やばいやばい、とかつぶやきながら、スマホデバイスを開いてなにやら入力していた。姉ちゃんは壁にもたれて、父さんはダイニングチェアに座って、どちらもまだ歯を磨いている。どちらも、じっくり磨く派なのだ。これも、むかしから。


 

 ……待っていたのだろう。だから。母さんは。キッチンの、出口にいる。廊下の明かりとコントラストとなって。柔らかい照明を背景に、ちょっとした背景みたいになって――母さんはいま家族のほかのだれでもなく、僕に、……僕だけに、ついていようと思ったのだろう、きっと。


 それが、なぜだかはわからない。

 ……不機嫌そうに見える僕を、たしなめたいのかもしれないし。

 わからない。けれど。……僕にきょう起こったことまでは、知らないわけだし。



「春、聞いてた?」

「……え。なにを」

「だからー、どたどた歩いちゃ駄目、って。海も真似するでしょう?」


 母さんは、腰に両手を当てて、唇を尖らす。ベージュのエプロン姿に、……どうもそういう典型的――タイピカルな叱るしぐさが、似合う母親ではあると、思う、……むかしから。


「ああ。うん。……わかったよ」


 考えてみれば。ああ。そうか。いま母さんがそこに立っていることなどほんとうはほんとうになんら深い意味もなく、そういう、日常生活のちょっとした動作的なレベルで――注意したいだけなのかも、しれないんだし、……でも。

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