僕が、僕自身ではなくなるような

 その日、学校が終わっても、僕は自分が自分ではなくなったような感覚を覚えた。

 いや、人間ではなくなった、と言うべきか。……わからない。



 いつも通り。

 帰って、母さんが出迎えてくれても。家族で食卓を囲んでいても。順番にお風呂に入っても。家族みんなで、寝る支度をしていても。


 僕は僕でなくなってしまった気がした。

 なんだかひどく悪いことを、家族、とくに母さんや父さんに対して、している気がした。


 家族で過ごしたって、大層な話や交流をするわけじゃない。

 母さんが出迎えてくれるといったって、簡単にやりとりをして、僕はすぐに自分の部屋に向かうし。

 食卓を囲むといったって、たいてい母さんが家族全員に語りかけ、でも僕や姉ちゃんは一問一答みたいにぽつぽつと言葉を返すだけだし、父さんに至っては文章ですらない短さのひとことを返すだけだ。母さんにいろいろ話しかけられて自身もいろいろと話すのは海くらいで、でも海はたぶんあくまで母さんや姉ちゃんに聴いてほしくて話しているから、すくなくとも僕の必要性は、そこにはあまりない。

 お風呂に入るのなんか、母さんに声をかけられたらなんとなく、といっただけのことだ。最近、海が流行りの美容法のためだかなんだか言って一番風呂にやたらこだわるから、父さん含めて家族全員が譲ってあげていて、でもあとはなんとなく入れるひとから入って、母さんは気楽だからって言って最後に入る。そのくらいのものだ。とくに、それ以上のやりとりがあるわけでもない。

 寝る支度をするときだって、食卓を囲んでいるときとおんなじようなものだ。母さんが、もっとちゃんと歯を磨きなさいよとか、明日の支度ちゃんとしたのとか、そういうことを尋ねてくるのがその時間らしいってくらいで。


 ……僕は、すっかり定位置となった、扉とテレビのあいだの壁に、いつも通りに背中を預けて歯磨きをしながら。

 そうだ――と、思考した。


 そう。だから。

 よく話しているわけでも、心の交流とやらがあるわけでもない。世のなかには、こんな時代だからと大層仲のよい家庭も多いらしいけれど、うちはべつに、そこまで、特段。

 ……家族だからただいっしょに過ごしているだけ。



 だから。そうなんだ。――そうなのだ、けれど。



「……春?」



 気がついたら、母さんが目の前にいた。

 気遣わしげな顔で。

 母さんは歯ブラシを持っていない。あとで磨くつもりなのだろう。お風呂と同様、母さんは歯磨きも、家族の最後におこなおうとする。


 僕は慌てて視線を逸らし、歯磨きに集中するふりをする。……嫌だな。もしなにか、勘づかれてしまったのだとしたら。いや。母さんは、いろいろ気にはしてくれるけれど、そういうことにはあまり気づかないほうだと思うから、たぶん、だいじょうぶだと思うけれど――今日のことなんか、知らないはずだし。そう。そのはずだよな――。


 母さんは、背伸びしてくる。なにか、ようすをうかがうかのように。僕はますます目を逸らす。不自然であっても、いまこんな距離で母親とまともに向かいあえるわけがなくて――そんなことは母さんは知るよしもないだろうけれど、でも、……僕からしたら、そうなわけで。



「ねえねえ、春……」

「……なんだよ」

「背が、伸びたよねえ」



 は、と言ってしまえばその瞬間に歯ブラシが口から落ちてしまいそうだったから、僕は慌てて口を閉じた。……歯磨き粉の感触、特有の味。


「うん、ほんとだあ、伸びた伸びた。また伸びたんじゃないの? いつまでも、伸びてくねえ。中学入りたてのときなんて、あーんなにおちびさんだったのにい」


 母さんはそんなことをひとりで楽しそうに言いながら、つま先立ちをして、片手を探検隊みたいにして、僕の頭にかざそうとしてくる。……母さんは、背が低い。父さんよりも、姉ちゃんよりも、いつのまにか僕よりも、ずっと。海よりはまだかろうじて高いみたいだけれど、海はまだ中学生だから――そのうち、母さんが家族でいちばん背丈の小さい存在に、なってしまうのかもしれない。そういうのはなんだかふしぎな気がする、……いつまで経っても、慣れなくって。


「……知らないよ」


 僕の言葉は、自分で思っているよりもぶっきらぼうに響く。母さんに対しては、最近、……とくに。


「健康診断、あったんでしょ。何センチか伸びたんじゃないの?」

「覚えてない、そんなことまで」

「あらー、ほんと。じゃあ母さんあとで健康診断のデータ見なくちゃね。学校から――」



 ……学校。

 その言葉に、心が、……肩が、じっさいに跳ねた。

 もちろん母さんが深い意味でその言葉を使ったのではないということは、わかっている。けれど。けれども――いまは、僕にとっては、その言葉は、……その場所は。




 きょうのことが一気にフラッシュバックしそうになる――駄目だ。



「送ってくれてさ、ファミリーネットに届くんでしょう、プライバシーの関係なのはわかるけれど届くまで時間がかかってさ――」

「……どうでもいいだろっ」



 僕は、ほとんど吐き捨てて、母さんに背中を向けた。どたどたと、……自分でもうるさいほどの足音を立てて、今日はだれよりも早く、洗面台へ向かう。

 ダイニングチェアに座って電子新聞を読んでいた父さんが、……ちょっと視線を上げて僕を見た、いつも無関心そうな父さんにしては珍しいことだ。ちょっと咎めるような目つきをしていたけれど、すぐに視線を落とした。そうだ。そういうひとなんだ、たぶん、父さんは。子どもと、うまくかかわれないというか、なんというか――わかっている。そして僕だってそれに対して、……どうこう言う年齢でもないさ、もはや。



 明るくて優しくて、叱るときにはきちんと叱ってくれるけれど、でも、やっぱりどこかとんちんかんで、だいじなことには気づかないらしい、母さん。

 ニッチだけれど確実な専門性をもっていて、仕事ではそれなりの評価を得てそれなりの立場にもなって、子ども三人を社会評価的にも生活的にも不自由なく育ててくれているけれど、でも、じっさいの僕たちにかかわることはほとんどなく、話しかけることさえときにためらっているように見える、父さん。



 ……もう僕の両親がそういうひとたちなんだろうってことには、僕は気づきはじめている。小さな、子どものころじゃないんだ。僕はもう高校生だ。だから――親というものを、そういう視点で見ることが、できるようになりはじめている。



 学校。

 だから。なおさら。言えない。

 言えるわけがない。仮定の話だとしたって、ありえない。

 たとえば今日のことを話すだとか。

 たとえば、僕がこれからたぶんこうなっていくよということを、洗いざらいぶちまけてしまうとか相談してしまうとかなんとか――そんなことは、ありえないんだ。




「……ははっ」



 わざと、水を、流しっぱなしにして。

 ……それに紛れさせて僕はすこし渇いた笑いを漏らした。

 口からは、歯磨きをしたあとのすこし粘ついた唾液が漏れていく。それを、ただなんとなく、……そのままにしておいた。



 なんだか、自分のこういうなんてことないはずの日常的な体液さえ、気持ち悪いな。

 気持ち悪い。僕は。




 きょうのことが、こびりついて、なにもかもが気持ち悪い――その気持ち悪さは僕が僕でなくなったと叫んでいる。……僕が、僕でなくなりつつあることを、明確に、告げ知らせている。そんな気がするんだ。たとえ僕がおかしくなったと僕が僕自身に対して思ったとしたって――。

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